倉敷美観地区は、江戸時代から残る白壁の屋敷と洋風建築が調和した町並みを現代に伝える場所です。
倉敷美観地区のような町並みは、戦前の日本では当たり前に存在しましたが、戦後の高度経済成長期に入ると徐々に姿を消していきます。そうした時代であった1968年(昭和43年)、倉敷は全国に先駆けて「倉敷市伝統美観保存条例」を制定し、この町並みを残す(保存する)という選択をしました。
しかし、倉敷美観地区は「古いものを冷凍保存した町」ではありません。時代に合わせて、新しいものを取り入れ、観光的な取り組みだけでなく、住民が暮らす「今も生きている町」なのです。
「倉敷美観地区の歴史を学ぼう」は2025年度に任意団体「このまち時間旅行倶楽部」が開催した、倉敷美観地区に関する勉強会において、倉敷市歴史資料整備室 山本太郎 氏・倉敷市教育委員会 藤原憲芳 氏による報告内容とスライド資料をもとに、倶楽部メンバーの議論を踏まえて、一般社団法人はれとこ 代表理事 戸井健吾がまとめたものです。
歴史資料を読み解くことで得られた研究成果にもとづく学びを通じて、倉敷美観地区にまつわる史実と伝承(解釈)を理解し、倉敷美観地区の歴史を学ぶ土台になることを願って作成しました。

「このまち時間旅行倶楽部」代表
大原あかねよりメッセージ
倉敷美観地区は、人々の暮らしや営みが地層のように積み重なることで、美観地区ならではの豊かなストーリーを育んできました。
その魅力的な語りの背景には、さまざまな伝承や解釈も含まれています。
私たちは、それらを否定するのではなく、ストーリーの土台となる史実を丁寧にたどることもまた、この土地をより深く味わう手がかりになるのではないかと考えました。
事実の積み重ねを、できる限り多くの方がアクセスできる形で共有すること。それが、この地を愛する人々の新たな創造や営みの一助となればと願っています。
本稿が、皆さまそれぞれの美観地区との関わりをより豊かにする一助となれば幸いです。

倉敷美観地区の定義
本稿で定義する「倉敷美観地区」とは、倉敷市倉敷川畔伝統的建造物群保存地区(第一種美観地区)として国から選定されているエリア(下図で背景が「青色」のエリア)とします。

青色:伝建地区 15.0ha
桃色:伝美地区 6.0ha
黄色:背景地区 2.2ha
(画像提供:倉敷市教育委員会)
倉敷では1965年(昭和40年)頃から、歴史的町並みを守るためのルールを作るべきだという声が大きくなり、1968年(昭和43年)に全国で2番目となる(第1号は金沢市の「伝統環境保存条例」)「倉敷市伝統美観保存条例」が作られました(1969年施行)。これにより、建物の外観を変更する場合は市長の同意が必要となります。
その後、1975年(昭和50年)に文化財保護法の一部改正があり、新たに「伝統的建造物群保存地区制度」が創設されました。さらに、1978年(昭和53年)に「倉敷市伝統的建造物群保存地区保存条例」を制定(1979年施行)し、国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。

「倉敷」という地名の起源
「倉敷」とは「倉敷地」の略称で、荘園から年貢などを輸送する際に一時保管しておく物資の集散地(現在の「倉庫街」のようなイメージ)を意味します。このため特別な意味を持つ地名・言葉ではなく「用語」です。
「倉敷」という用語は古代・中世に西日本の各地で存在しており、「倉敷」と呼ばれた地のうち有名なのは、現在の尾道で、大田荘からの年貢の積み出しのために設置されました。
地名としての倉敷は、現在の倉敷市および岡山県美作市林野の旧地名として存在し、現在の倉敷市周辺を意味する地名として「倉敷」が登場するのは16世紀後半までさかのぼります。

美観地区の歴史
現在の美観地区周辺が、歴史上に登場するのは16世紀後半です。
氷河期〜15世紀まで
美観地区周辺は、氷河期の頃は陸地であったと言われています。氷河期は現在よりも100mほど海面が低かったと言われており、その結果大陸と日本列島は陸続きとなり、瀬戸内海の辺りも陸地でした。このためナウマン象も生息していたと思われ、実際瀬戸内海の海底からナウマン象の化石が引き上げられています。
この頃、人類も暖かい場所を求めて、日本列島の辺りに移動したようです。美観地区周辺も陸地だったと思われるため、人が生活していた可能性もあります。当時の人類は、暖かい場所・食料を求めて移動しており「定住」の概念は薄いため、生活の痕跡は見つかっていません。

(引用:『新修倉敷市史』第1巻59ページ 間壁忠彦氏・間壁葭子氏執筆部分)
今から約6000年前の縄文時代には、氷河期が終わり陸地だった場所は海になりました。美観地区周辺も同様ですが、鶴形山・向山など現在「山」と名の付くエリア、羽島など「島」と名の付くエリアは当時島で、縄文人が居住していたと思われます。
その証拠に、羽島貝塚・船倉貝塚が残っており、とくに船倉貝塚は地層が深いため比較的多くの人が長く暮らしていたと思われます。
その後、平安時代から鎌倉時代にかけては各地に多くの荘園(貴族・寺社・有力者などが私的に支配した土地)が成立しており、現在の倉敷市街地北部も荘園化していました。この頃政治の中心は京都であったため、「京都からほどよい距離のある場所」として周辺エリアは緩やかに発展していきました。現在の倉敷市西阿知には、平安時代に開山されたと伝えられる遍照院があり、徐々に陸地が増えてきていることが伺えます。
なお、倉敷周辺で最も有名な平安時代末の出来事は、源平合戦における藤戸合戦・水島合戦です。

15世紀

15世紀(1400年代)になっても、美観地区周辺は海です。しかし、東高梁川(現在は廃川。明治から大正時代にかけて行われた高梁川改修工事以前に存在した)の氾濫などにより土砂が堆積し、美観地区の北方一帯には徐々に陸地が広がってきています。
広がった陸地には、新天地を求める人たちが住むようになります。
「海沿いの新しい土地に住みたいものだろうか」と、現代の感覚では思うかもしれません。現代の感覚では内陸の方が便利で住みやすい土地ですが、明治時代まで物流の中心は陸ではなく海でした。
このため、海沿いの町や島に住む人々は、交易によって豊かでした。鉄道が登場する明治時代までは水運が主流であったため、陸から海を見るのではなく、海から陸を見る視点は重要です。
そのような視点に立つと、倉敷では児島・連島などが豊かな地域であったと言えるかもしれません。

16世紀後半

16世紀に入ると、土砂の堆積で広がった沖積地が美観地区の辺りまで広がりました。
倉敷の土地はその後干拓によって飛躍的に増えていきますが、美観地区の辺りまでは干拓地ではなく沖積地です(倉敷市浜町の地名は海辺であった時代の名残と思われます)。
※現在の倉敷市新田・笹沖などは干拓地
美観地区は海に近い場所であったため港として栄えるようになりました。
16世紀後半から徐々に町が形成されていきます。港であったため、現在の本町にまずは市場ができました。そこから町が広がっていきます。

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
なお、備中高松城水攻め後における備中国の大部分は毛利領と宇喜多領で、倉敷は宇喜多領でした。

江戸時代(初期)
16世紀までの倉敷は港であるため、農地はほとんどなかったようです。
その後江戸時代に入り、農業が盛んになり美観地区よりも南のエリアが干拓により海が陸地化し、倉敷は物資の集散地として発展するようになりました。
この頃には「倉敷」という地名も地元の文書に記録されています。

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」の後、それまで倉敷を含む備中の大半を支配していた毛利・宇喜多氏は、備中から追い払われます。そして、関ヶ原の戦いに勝利し覇権を確立した徳川家康は、備中など11カ国(畿内を中心とする)に「国奉行」を置きました。
「国奉行」は江戸時代に豊臣家蔵入地を徳川家康が管理するために置いた役職で、関ヶ原の戦い直後は豊臣家もまだあり、江戸幕府の体制も確立されていないため、このような形になったようです。

備中国奉行として派遣されたのは小堀正次(こぼり まさつぐ)で、その後1604年に正次の急死により小堀政一(こぼり まさかず)が家督を継ぎ、備中松山城を守りました。備中国奉行の重要拠点であったのは、城のある松山と船を有する港である倉敷です。
なお、小堀政一は一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られており、桂離宮をはじめとする日本庭園の作庭家・茶人としても歴史に名を残しています。

(引用:『新修倉敷市史』第3巻38ページ 山本太郎氏執筆部分)
その後、備中国の松山藩領として池田長幸・長常の時代が続きますが、1641年に池田長常が死去し無嗣断絶(跡継ぎがいないまま当主が死去し、家が取り潰しになること)となった結果、倉敷村は幕府の直轄領となります。


江戸時代(幕府直轄領へ)
1641年12月から、米倉平大夫(よねくら へいだゆう)と小川藤左衛門(おがわ とうざえもん)が代官として派遣され、倉敷村は幕府直轄の代官の支配する町になります。いわゆる「天領のまち倉敷」はここから始まりました。
天領という言葉は、現代では特別なもののような紹介をされることも多いですが、このような経緯で幕府の直轄領となっているため、選ばれたわけではありません。天領という言葉も、幕府直轄領の俗称です。
幕府の本音としては直轄領を増やしたいという狙いはあったと思われますが、大名もいる中で強引なことはできないため、タイミングが合えばこのような形で直轄領を増やしていたそうです。
このため、当時の民衆の感覚としては、「選ばれた」「天領はすごい」といった感覚は皆無だったと思われます。天領が特別なもののように語られたのは、観光的なキーワードと結びつくようになった昭和以降の話です。
しかし、大名が支配する「城下町」と比較して、自由な空気はあったのではないかと想像されます。支配身分である武士や武士が住む「武家屋敷」がなく、武士に奉公する町ではなかったためです。
倉敷村の運営

幕府直轄領となった倉敷村は、村役人を中心とした運営になります。
倉敷代官は武士ですが、現代で言えば「東京から派遣された官僚」のような存在です。地元有力者に幕府領の支配を分担させる形をとらざるを得なかったと思われます。
江戸時代のはじめから村の運営を担ったのは、「古禄」と呼ばれた旧家です。古禄は江戸時代初期には多くの貸地・貸家を抱え、問屋や醸造業を営む有力商人となっていました。
商人が村役人として倉敷村を運営したと聞くと、江戸時代の身分制度「士農工商」を連想し疑問を持つ方もいるでしょう。確かに「士農工商」という言説は存在しますが、実態はそれほど単純ではありません。
現在では、支配身分(武士・天皇家・公家・上層の僧侶・神職)と被支配身分(百姓・職人・家持町人)として捉える見解があり、武士の主従制、百姓の村、町人の町、職人の仲間など団体や集団ごとに組織され、個人は家や集団を通じて身分に位置づけられたそうです。
例えば城下町に住む人は町人、村に住む人は百姓となります。そして、百姓でも農業をする人・商売をする人がいるなどさまざまです。身分と職業はわけて考える必要があります。
倉敷村は村です。
このため、その構成員は実際の生業にかかわらず身分は百姓であり、倉敷村は「商人・町人の村ではなく、百姓の村」となります。
なお、倉敷村は現在のJR倉敷駅から倉敷市新田(新田中学校)の辺りまでのエリアでしたが、現在の美観地区周辺は「水夫屋敷(かこやしき)」と呼ばれていました。水夫屋敷だけでみれば、ほぼ商売をする人ばかりだったそうです。

江戸時代の生活

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
江戸時代の倉敷村は、現在の倉敷アイビースクエア内に倉敷代官陣屋(1746年完成)があり、現在の美観地区には多くの家が並んでいました。
江戸時代初期は古禄が村運営の中心でしたが、「新禄」と呼ばれる新しく伸びてきた新興商人も登場します。このように、代官など支配者層ではなく、民衆が村運営の中心を担っていたことで、独自の取り組みも行うようになります。
| 古禄 | 小野家 水澤家 井上家 岡家 等 |
| 新禄 | 植田家 大橋家 大原家 原家 小山家 等 |
新禄の登場は、その後「新禄古禄騒動」を招きました。
ついには、配下の百姓も巻き込んだ村方騒動となり、出会ってもお互いに口も聞かないような期間が長く続いたそうです。
村役人を独占していた古禄に対して、文政年間(1818〜30年)に新禄の6人が異を唱え、最終的には江戸訴訟になりました。その結果、初めて村役人が選挙で選ばれるようになりますが、最初は新禄から植田家、古禄は水澤家が庄屋になり、どちらにつくかで村が二分されたそうです。
この村方騒動はかなり激しかったそうで、江戸時代の倉敷村は争いごとも多かったと言えるでしょう。
一方で武士が支配する世の中において、幕府直轄領のため武士の人数が少なく、百姓が村の中心的な役割を担い争いが起こっていたことは、経済的には恵まれていたこともうかがい知れます。
なお、倉敷村庄屋を訴えた6人組をさして「新六」という言葉は使われていましたが、古禄・新禄という言葉は当時使われていたわけではなく、後の時代に名付けられたと思われます。

倉敷義倉(くらしきぎそう)と呼ばれる相互扶助組織は、倉敷村の独自性を象徴する存在です。
倉敷義倉は現在でいう困窮者を救済する福祉制度です。このような制度が、支配者層ではなく民間主導で設立・運営されたことから、当時の倉敷村の民衆の「町に対する想い」をうかがい知ることができます。
江戸時代の倉敷の職業構成


倉敷村の職業は「倉敷村町内小前商売留帳」によると、1772年の倉敷村の小前戸主1838人のうち、農業従事者が893人、農業以外が945人だったそうです。
農業従事者を見ると、百姓はわずかに60人で、小作人が828人におよび、土地所持が一部の人に偏っていたことが伺えます。このため「百姓の身分」だからといって平等ではありませんでした。
土地を持っているか・いないかの差は大きく、持っていない人は借家での小商売や移動販売のような仕事をするしかありませんが、自分の実力でのし上がっていく余地があったのは倉敷の特徴であったのかもしれません。商売でのし上がった新禄の存在は、その象徴と言えるでしょう。
実際、農業以外では多様な商工業が展開されていました。
その中では、魚売134人や綿実買・実買45人が目立ち、魚・綿実の流通の拠点としての特色が浮かび上がっています。問屋10人・仲買6人・宿屋10人・質屋19人の存在は、倉敷が地域の流通・金融センターであることを示しています。また、女性の職種として縫物が多かったそうです。
江戸時代は石高制(田畑・屋敷地などの生産高を玄米の量で表わしたもの)の社会です。農業が主流の時代において、地方の村でありながら多様な職業の人がいたことは、後の時代にも影響を与えたのかもしれません。

明治時代

(画像提供:公益財団法人大原芸術財団)
江戸時代、倉敷は倉敷代官陣屋が設置され、地域の中心的な町として栄えていましたが、明治維新を境に変わり始めます。
倉敷村は1868年の明治維新後に、それまで倉敷代官陣屋が管轄していた幕府直轄領にいくつかの地域を加えて「倉敷県」になりました。その後、1871年に倉敷県を含む備中国、備後国の10県を統合した小田県(設置当時は深津県)が設置されます。
小田県の県庁は現在の笠岡市でした。
このため、江戸時代以来長らく「地方政治の中心地」であった倉敷は、政治の中心地から外れてしまいました。さらに、1875年に岡山県に合併され、「岡山県の中にある地方の村」になった倉敷は徐々に廃れていきます。
1880年生まれの山川均は、「私がもの心のついたころの倉敷は、まだ水の流れることのない古池のような村だった」と記しています。
倉敷紡績の誕生

その後1884年頃から、「岡山県の田舎町」となっていた倉敷を変えたいと、町の青年たちが立ち上がります。その中でも、木村利太郎(きむら りたろう)・小松原慶太郎(こまつばら けいたろう)・大橋澤三郎(おおはし さわさぶろう)の3人は「倉敷の三傑」と称され、後の倉敷紡績所設立に関わりました。
現代のように移住や都会で学ぶことが簡単ではなかった江戸時代においても、富裕層は江戸や京都で学問を修めました。明治時代になって青年が当時としては先進的な「紡績業」を知ったのも、東京で学んだ成果と思われます。そのような人が一定数いたことが、江戸時代の倉敷が豊かであった証拠とも言えるかもしれません。
彼らは「町・村を代表して都会に学びに行く」という感覚が強かったそうです。このため、学んだ知識を地元で共有したり、町のために尽くしたりするのは自然なことであり、使命感も強かったと思われます。
倉敷は江戸時代から綿花の栽培地であったこと、そして明治政府が殖産興業政策のもと近代紡績産業を推奨していたことから、木村利太郎・小松原慶太郎・大橋澤三郎の3人は地元の有力者に紡績会社設立を説いて回りました。
初代社長となった大原孝四郎(おおはら こうしろう)の賛同と出資を得て、新しい事業の計画を知った多くの県民が共鳴して多数の株式引受の申込みが相次ぎ、不足分を大原孝四郎が引き受けることで事業化の目処が立ちます。こうして1888年に、倉敷代官陣屋跡地に倉敷紡績所が設立されました。


倉敷紡績所は、西洋から最新技術を取り入れた建物でした。
伝統的な町並みの中、しかもかつての政治の中心地である倉敷代官所陣屋地に、レンガ造りの西洋建築が出来上がることは、現代の感覚では違和感を持つかもしれません。しかし、当時は江戸時代の町並みが当たり前だった時代です。江戸時代の町並みや白壁よりも、西洋化・近代化することに喜びを見出したと想像されます。

大正時代〜昭和初期

その後、倉敷美観地区の中心人物は、倉敷紡績の初代社長大原孝四郎の後を継いだ、大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)に変わります。
大原孫三郎は倉敷紡績を日本を代表する紡績会社に発展させる一方、第一合同銀行(現:中国銀行)、倉敷絹織株式会社(現:クラレ)なども設立し活躍しました。さらに、大原美術館・倉紡中央病院(現:倉敷中央病院)・大原農業研究所(現:岡山大学 資源植物科学研究所)・大原社会問題研究所(現:法政大学大原社会問題研究所)・倉敷労働科学研究所(現:大原記念労働科学研究所)などの施設を作るなど、数々の社会事業・芸術文化活動の支援を行いました。



この頃から、倉敷は「天領である」ということにプライドを持ち、人々も「天領のまち倉敷」という意識を持つようになりました。
現代において観光的なキーワードとしてよく聞く「天領のまち倉敷」のように、天領をアピールするようになるのもこの頃です。
1928年(昭和3年)に倉敷市役所が発行した書籍『倉敷市案内』には、以下のような記述があります。
「天領倉敷」として特異の発展を続けて来たのである
明治維新から50年以上の時が経ち、幕府直轄領だった時代が美化され始めた時期だったのかもしれません。天領というキーワードを、倉敷という町自身が使うようになっていきます。

民藝との出会い
この頃、後の町並み保存活動につながる重要な出会いがありました。大原孫三郎と民藝の出会いです。
「民藝」という言葉は民衆的工藝の略で、柳宗悦(やなぎ むねよし)によって作られた造語です。柳は、日常生活で使われるものには、その用途に根ざした美しさ「用即美」があると考え、河井寛次郎(かわい かんじろう)・濱田庄司(はまだ しょうじ)・富本憲吉(とみもと けんきち)らとともに民藝運動を立ち上げました。
大原孫三郎は柳宗悦との出会いを経て、日本民藝館の設立を全面的に支援するなど民藝運動を支援し、地域の工芸品の魅力を多くの人に伝えようと活動しました。その結果、民藝運動のキーパーソンが頻繁に倉敷へ集まるようになります。

戦後から現代

大原孫三郎は終戦直前の1943年に亡くなり、文化事業も含めて大原家の事業は長男の總一郎(そういちろう)に引き継がれました。
大原總一郎は1932年に倉敷レイヨンに入社し、1936〜38年にかけてヨーロッパ各国を視察しました。この時訪れたドイツ・ローテンブルクの町並み保存に感銘を受け、倉敷の町並み保存活動を行ったと紹介されることは多いですが、ローテンブルクに立ち寄ったという明確な記録は残っていません。
唯一の記録は、帰国後に中学・高校の同窓であり、倉敷レイヨンの営繕技師であった浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう)に「倉敷を日本のローテンブルグにしようではないか」と語ったという、浦辺鎮太郎の言葉のみです。
大原總一郎が文化・芸術はもちろん、町並み保存に対して熱い思いを持っていたことは間違いないでしょう。しかしそれは、活動を応援するというスタンスであり、自らが先頭に立って動くというものではなかったと思われます。
その根拠の一つは、民藝との関わりです。
父・孫三郎の影響もあり、民藝運動に関わる人との交流があったため、戦後間もない1946年に柳宗悦の推薦で染織家の外村吉之介(とのむら きちのすけ)を倉敷に招き入れます。終戦を迎えてもすぐに沖縄に帰れなかった女子挺身隊に織物の技術を学んでもらう目的で、その指導を外村吉之介にお願いするためでした。

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
その後、1948年に日本で2番目の民藝館として倉敷民藝館が設立されました。これは大原家の米蔵を活用したもので、倉敷の古民家再生の第1号でした。現在の感覚で言えば「リノベーション施設」とも言えます。「あるものをいかす」精神は柳宗悦が提唱した民藝の精神の一つであり、大原總一郎・外村吉之介の両名は意識していたものと思われます。
倉敷都市美協会の発足と町並み保存活動

(倉敷民藝館所蔵)
さらに、1949年に「倉敷都市美協会」が発足します。
これは、外村吉之介ら地元の有識者によって発足した、全国初となる地域住民による町並み保存団体です。しかし、当時町並みを残すという気運が高まっていたのは事実ですが、「住民の総意」ではありませんでした。日本が高度経済成長期に入り始め、古いものを壊し新しいものを作るのが当たり前の時代だったからです。
それでも「残す」という決断ができたのは、外村吉之介をはじめとするキーパーソンが活動を後押ししたからだと思われます。そのような意味合いから言えば、倉敷の町並み保存活動において外村吉之介の果たした役割は大きいでしょう。また、倉敷都市美協会の活動初期は、藤島亥治郎(ふじしま がいじろう)が1952年1月に「文化財月報」にて発表した、「文化財としての民家」と題する文章が強い励ましになったそうです。
倉敷都市美協会は大原孫三郎・總一郎親子に対して、町並み保存の礎を築いたという意味で常に敬意を払っていました。しかし、後年は周りの人たちが勝手に作りあげた「大原家を軸にした町並み保存のストーリー」に対して、疑問を抱いていたようです。大原總一郎が町並み保存活動に無関係であったわけではありませんが、深く関与したという記録もありません。活動を否定せず、同調するような活動が多かったことから、「お墨付き」を与えているような雰囲気だったのかもしれません。
実際、倉敷美観地区においてはその後、クラレの営繕技師であった浦辺鎮太郎が多くの建築物を手掛けましたが、当時は「大原さんが新しいことをやっている」という感覚だったようです。現代において新しい建物の建築家が関心を持たれないのは当時も同じで、建築家として「浦辺鎮太郎」という名前がピックアップされるようになったのは、近年の話です。

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
そして、住民主導で守られた歴史的町並みを、守り続けるための決まりを定めるべきという声が大きくなり、住民の活動を行政が後押しするような形で、1968年(昭和43年)に「倉敷市伝統美観保存条例」が作られました(1969年施行)。さらに、この取り組みが国の制度となり、1978年に国の重要伝統的建造物群保存地区の設定を受けました。
こうして倉敷美観地区の町並み保存は、法律的な根拠を得ることになり、現代に続いていくのです。
しかし、法律的な根拠を得た後も住民の活動は続いています。
なぜなら、観光地としての側面が強くなったとしても、倉敷美観地区は今も商売人だけでなく住民が暮らしており、生きている町だからです。住民がいるからこそ、生活面の課題も生じます。
このため、1949年に発足した「倉敷都市美協会」の理念と活動は、現在では「倉敷伝建地区をまもり育てる会」に引き継がれ、安心・安全なまちと町並みを育て次世代に引き継ぐための活動を継続しています。

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

このまち時間旅行倶楽部
(協賛:株式会社三楽)
メンバー
| 大原 あかね 株式会社三楽 取締役副会長 |
| 門利 博子 語らい座大原本邸 館長 |
| 稲垣 年彦 一級建築士事務所トリムデザイン |
| 大賀 環子 一級建築士事務所トリムデザイン |
| 秋葉 優一 株式会社クラビズ 代表取締役 |
| 高石 真梨子 倉敷市地域おこし協力隊 |
| 戸井 健吾 一般社団法人はれとこ 代表理事 |
アドバイザー・記事監修
| 山本 太郎 氏 倉敷市総務局総務部総務課 歴史資料整備室主任 |
| 藤原 憲芳 氏 倉敷市教育委員会 学芸員 |
| 西村 将典 氏 倉敷市文化産業局参事 |
