倉敷とアフリカ。言語や文化、生活様式がかけ離れた地域であるにもかかわらず、倉敷で生まれ育ち、アフリカで挑戦し続けているプロサッカー選手がいます。
森下仁道(もりした じんどう)さんは、倉敷市で生まれ育ち、ザンビアやガーナなどのアフリカのリーグでプロ契約を果たしたサッカー選手です。
ガーナでは初の日本人サッカー選手として活躍し、現地の人たちからも人気を集めています。
「倉敷が誇れるような人材になりたい」と語る森下さんの活動を紹介します。
記載されている内容は、2024年5月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
森下仁道さんについて
森下仁道さんは、アフリカのプロサッカーリーグで活動している選手です。(2024年4月現在28歳)
1995年に倉敷市で生まれ、幼少期を過ごしたオランダでサッカーと出会い、帰国後はJFE倉敷FC(現:ピナクル倉敷FC)やハジャスフットボールアカデミー、倉敷青陵高等学校のサッカー部に所属。
幼い頃からサッカーにかける思いは強く、高校時代は1年間休学し、インドネシアのサッカー留学に挑むほどでした。
高校卒業後はサッカーの名門である筑波大学へ進学し、在学中にアフリカのザンビアでプロデビュー。その後、ガーナへ移籍し、ガーナ初の日本人選手として2年間リーグを盛り上げてきました。その活動は日本国内外問わず、多くのメディアに取り上げられています。
森下さんはサッカー選手としての活動だけにとどまらず、国際支援につながる活動も数多く展開しています。
- 現地サポーターの雇用を創出した、ガーナの「トゥクトゥク事業」
- ガーナのサッカーアカデミー(NGO)にて、「サッカー指導およびライフスキルの習得・ジェンダー問題・キャリア形成の指導」
- クラブの財政難を救う「日系企業のスポンサー誘致」
- 日本の企業と優秀なアフリカの学生をつなぐ「インターン提供」
- オンライン英会話サービス「EvolvEng」の運営
ガーナへ地元・倉敷の企業をスポンサー誘致したり、母校である倉敷青陵高校の生徒をガーナへ案内したりするなど、日本とアフリカ、さらには倉敷とアフリカをつなぐ活動もおこなっていました。
2024年4月現在はケガによるリハビリで一時帰国していますが、今後もアフリカを舞台にサッカーに挑戦し続けるそうです。
サッカー一筋の人生を駆け抜けている森下さんの、現在に至るまでの物語を振り返ってみましょう。
サッカーとの出会い
初めてサッカーに触れた、当時の出会いを振り返ります。
オランダで過ごした幼少期
森下さんがサッカーを始めたきっかけは、オランダで過ごした幼少期にあります。
5歳のときに、父親の転勤で地元・倉敷を離れてオランダに移り住み、インターナショナルスクールに通い始めました。
当時オランダでは、プロサッカー選手として小野伸二(おの しんじ)選手が活躍していました。
体格の良いオランダの選手に囲まれながらもテクニックでサポーターを魅了する小野選手に、森下さんは憧れを抱きます。小野選手の活躍が、森下さんがサッカーを始めたきっかけになったのです。
移り住んだ当初、英語でのコミュニケーションが苦手だったものの、言葉を使わずともサッカーを通じて友達と交流する機会が増えていきます。英語よりもサッカーが上達し、上級生からも一目置かれる存在になるほどでした。
ボールに触れる機会は学校だけに留まらず、クラブチームにも所属。オランダではサッカー漬けの日々を過ごしました。
帰国後のいじめを乗り越えたクラブチームの存在
11歳のとき、オランダから倉敷に戻ってきた森下さんは、地元の小学校へ転校します。
そこで待ち受けていたのは、いじめ。長年話してきた英語が同級生に受け入れてもらえず、壮絶ないじめを経験します。
苦しい環境のなかで心の支えになったのは、クラブチームの存在でした。
森下さんが倉敷で所属したJFE倉敷FC(現:ピナクル倉敷FC)は、当時岡山県内でも有数の強豪クラブ。過酷な練習に辛さを感じながらも、クラブチームの仲間たちとのサッカーが、森下さんの居場所になっていました。
JFE倉敷FCに所属中、森下さんは県大会優勝を経験し、漠然と抱いていた「プロサッカー選手になりたい」という夢が、現実的な目標へと変わっていきました。
インドネシアで実績を積んだ高校時代
プロサッカー選手になるという目標が明確になった森下さんは、中学校でも強豪クラブチームのハジャスに所属し、県の選抜メンバーに選ばれました。
14歳のとき、母親からの助言を受け、幾多のプロサッカー選手を輩出した筑波大学の存在を知ります。
筑波大学進学のために、倉敷青陵高等学校に入学しました。
サッカー部で抱えたジレンマとの戦い
森下さんは倉敷青陵高校へ進学し、サッカー部に入部しました。
倉敷青陵高校のサッカー部は、当時岡山県のベスト4にランクインした実績を持っており、森下さんは入学前から部内の練習に参加していました。
しかし森下さんが入部したタイミングで、ベスト4へ導いた当時の顧問や部員が代替わりでいなくなり、思うように練習ができなくなります。かつてのクラブチームの同期は、別チームで活躍しており、森下さんは焦りを感じます。
全力でプレイできない環境に物足りなさを感じ、当時インドネシアに単身赴任していた父親に、現地のサッカー事情を尋ねました。インドネシアはサッカーがとても盛んで、国民的人気スポーツとして親しまれていることを聞き、森下さんのなかで新たな環境で挑戦したい気持ちが芽生えてきます。
しかし、大学受験の勉強や、最後の大会に出場できなくなることなど、日本を離れるのは悩ましい選択でした。
最終的に、進路相談でお世話になっていた恩師の「迷っているなら絶対行くべきだ」という言葉に背中を押され、インドネシアでの挑戦を決意します。
インドネシアでの新たな挑戦
インドネシアでは、まず現地の海外駐在員の草サッカーに混ぜてもらうことから始まりました。
しばらく参加していると、練習試合先のインドネシアで活躍するプロ選手と出会います。森下さんが無所属だと知ったその選手は、自身が所属するプロチームの監督に森下さんを紹介。現地のアカデミーユースで練習できるようになりました。
その後、ジャカルタインターナショナルスクールの強豪サッカーチームの監督にスカウトされた森下さんは、日中は勉強、放課後は選抜チームで練習する日々を送ります。
滞在期間中最後の東南アジアサッカー大会に出場し、森下さんのチームは準優勝。さらに得点ランキングで森下さん個人はトップ3入りを果たし、大会優秀選手にも選ばれました。その実績から、インドネシア選抜にも名前が挙がるほどの活躍を残します。
「サッカーを一生懸命やって、与えられた場所で結果を出していたら、出会いやご縁がどんどん広がっていきました。サッカーで未知の場所を開拓したこのときの経験は、後々のアフリカの成功体験にもつながっていると思います」と振り返ります。
勉強とサッカーを両立させた受験期
帰国して早々に受験生となりましたが、「絶対にサッカーをやめない」という強い意志を担任の先生にも伝え、卒業までサッカー部を引退せずに練習を続けました。
しかし顧問の先生のアドバイスもあり、夏の2か月間のみサッカーをせずに勉強に注力します。人生でもっとも勉強した期間だった2か月でしたが、その結果、偏差値は20ほど上がり、模試の結果もA判定が出るようになりました。
体育専門学群の学力試験に向けた勉強に力を入れていましたが、国際総合学類の推薦入試を担任の先生から提案されます。推薦入試で受けたところ無事合格し、筑波大学へと進学しました。
国際総合学類は推薦入試のために選びましたが、後にこの選択をしたからこそアフリカへ挑戦する道が生まれたと話します。
大学時代
筑波大学へ進学し、蹴球部(サッカー部)に入部した森下さんは、在学中にアフリカのザンビアでプロデビューを果たしています。
6軍からのスタート
筑波大学蹴球部は、1896年(明治29年)に設立された日本でもっとも歴史のあるクラブです。数多のサッカー選手を輩出しており、全国各地からサッカーの猛者たちが集まってきます。
そのため部員数も多く、部内では1軍から7軍までレベルごとにチーム分けがされており、監督から直接サッカーを指導してもらえるのはトップの1軍のみでした。
入部希望者はまず、「フレッシュマンコース」と呼ばれる2か月間の仮入部期間を乗り越えなければなりません。フレッシュマンコースは、長時間の過酷なフィジカルトレーニングをおこなったり、蹴球部の組織文化を叩き込まれるなど、体力・精神の基盤を作るための期間でした。
フレッシュマンコースを乗り越えた新入生は、レベルごとに1軍から7軍のチームに振り分けられます。森下さんが振り分けられたのは6軍。上位チームとの実力差を目の当たりにしますが、その悔しさをバネに練習を重ね、最終的には2軍にまで昇格しました。
しかし、現状のままだとプロへの道が叶わなくなると思い、プロになるための戦略を立てます。
オファー以外でプロになるためには、トライアウトと呼ばれるテストに参加する方法があります。トライアウトは練習や試合に参加して、自身の能力をアピールし、プロチームからのオファーを目指すという流れでした。
しかし、トライアウトには自分と同じような実力の選手が集まるため、さらに目立つ必要がありました。
森下さんは、サッカーのレベルが高い地域で修業し、帰国後に日本のプロサッカー選手になることを計画し始めます。
アフリカへの挑戦を決めた大学4年生
筑波大学に入学して間もない頃、森下さんは国際総合学類から体育専門学群へ転学するか、悩んだ時期がありました。
小井土正亮(こいど まさあき)監督に転学を相談した際、「体育の学部にいて英語が話せる人材よりも、国際の学部にいてスポーツも網羅している人材のほうが、将来的な選択肢が多いから、転学はやめておきなさい」と説得されたそうです。
当時は納得いかない気持ちもありましたが、その後、国際総合学類で出会った仲間たちとの会話のなかから、アフリカでサッカーに挑戦するアイデアが生まれてきたと話します。
森下さんは国際総合学類に籍を置きながら、体育専門学群の国際開発の研究室にも所属していました。その研究室の先生から紹介され、アフリカのザンビアで開催される、スポーツの国際学会へ同行するチャンスが訪れます。
アフリカでサッカーする人脈を作りたかった森下さんは、先生に頼み込みザンビアへ一週間同行。会場では、自身のサッカーのプレイ映像が見られる二次元コードを名刺の裏に印刷し、数百枚配りました。
その結果、ザンビアの代表チームの関係者とご縁が生まれて、ザンビアのプロチームの入団テストを受けることになったのです。
二次元コードを印刷した名刺を配るアイデアは、国際総合学類の仲間たちとの雑談から生まれたものでした。
サッカーの枠を超えた、アフリカでの活躍
ザンビアでプロデビューを果たし、その後ガーナでプロサッカー選手として活躍した森下さん。その活躍の場はサッカーだけでなく、国際支援にも広がっていきました。アフリカでのプロデビューから、現在までの活動を紹介します。
異文化のなかで鍛えられたザンビアのサッカー
森下さんは、卒業目前に休学し、文部科学省が運営する「トビタテ!留学JAPAN」の9期生としてザンビアへ渡りました。そして多くのカルチャーショックを体験しながら、現地のプロチームのトライアウトに参加し、念願のプロデビューをついに果たします。
トライアウト中、サッカーを通して人種差別を体感することもありました。
最初にトライアウトを受けたプロチームには、最終選考で「アジア人とは契約ができない」とはっきり断られたそうです。
「現地の彼らは、サッカー選手になれないと家族も養えなくなって死活問題になるんです。そういう現地の実情を知ると考えさせられることもありました。それでもプロの世界なので、やるしかないという気持ちで次のトライアウトに挑みました」と話します。
最初は、異国の地の生活にストレスを感じる日々もありました。
ホストファミリーとのコミュニケーションが上手くいかず、慣れない食虫文化により体重が10kgも落ちたこともありましたが、森下さんはザンビアの文化にどんどん適応していきました。
「アフリカにはアフリカのコンディションの作りかたがある」と考えたのです。
カルチャーショックを受けることが多かったザンビアの生活でしたが、新たな価値観も得ました。これまでの「目標を作って道筋を立てる」という逆算思考だけでなく、「今この瞬間をどうやって積み重ねていくか」という加算思考が加わりました。
現在のリハビリ期間も「ケガをしたからこそできることはなんだろう」と考えられるのは、ザンビアで培った加算思考のおかげで上手く気持ちが切り替えられたと話します。
ガーナでファンを生み出したトゥクトゥク事業
帰国後、大学を卒業して、念願だったJリーガーデビューを目指していたその矢先、姉との突然の別れが森下さんを襲います。姉の急逝のショックと、コロナ禍も相まって、サッカーをプレイできない時期もありました。
しかし、家族の強い後押しもありサッカーを続けることを決意。ガーナのチームから来たオファーに二つ返事で応え、新たな挑戦が始まりました。
ガーナリーグ史上初のアジア人選手ということで、現地の期待は大きく、当時はメディアからも注目されました。
しかし、ガーナでも監督から人種差別を受け、試合に出場できない日々が続きます。外国人選手を試合に出さないという監督に対し、森下さんは「自分を応援してくれるファンを増やして、外からプレッシャーをかけよう」と考えました。
森下さんが立ち上げたのはトゥクトゥク事業。現地のサポーターを雇用し、売り上げを使って子ども向けのサッカー大会を何度も開催しました。その結果、トゥクトゥクを利用するサポーターやドライバー、子どもたちとその家族が「仁道の応援に行こう」と試合に足を運んでくれるようになったのです。
森下さんが出場していないと監督に対して怒ってくれるサポーターもいました。
出場時間は5分、10分と伸びていき、ついにフル出場を達成。在籍中にマン・オブ・ザ・マッチと呼ばれる最優秀選手に与えられる賞も受賞するほど活躍し、ガーナリーグを盛り上げました。
最大のケガを乗り越えて、モロッコへ
ガーナで二度のプロ契約を果たした後、次に目指した舞台はモロッコでした。モロッコは2022年のFIFAワールドカップで4位にランクインした実績があり、アフリカで今もっともサッカーが強い国だと森下さんは話します。
自ら営業に行き、契約してくれるチームと出会いました。さらにハイレベルな環境でプレイできる喜びを胸に、より一層練習に力が入ります。
しかし、帰国中のトレーニングで、前十字靭帯断裂という大きなケガを負ってしまいました。
全治10か月のケガは選手生命にも大きな打撃を与え、モロッコへの移籍も危うい状況になります。
そのとき、モロッコに支店を持つ日本の企業から「スポンサーになるので再度チームと交渉してもらえませんか」と電話がかかってきました。
アフリカで活躍する森下さんの存在を知った筑波大学のOBが、声をかけてきたのです。過去の努力が引き寄せた縁を噛みしめながら、モロッコへ挑戦することになりました。
地元・倉敷で広がり続ける縁
森下さんはプロで活躍するだけでなく、サッカーを通してさまざまなビジネスにも取り組んでいます。
アフリカと日本で活動する森下さんの、倉敷に関わるエピソードの一部を紹介します。
ガーナ初の日本企業スポンサーとなった、アイルエンジニアリングとの出会い
スポーツ選手には欠かせないスポンサー企業の存在。
森下さんの活動を支えるスポンサーのなかには、ガーナで出会った倉敷の企業がありました。
アイルエンジニアリング株式会社は、倉敷市神田に本社を置く建設会社です。唯一の海外支店がガーナにあり、森下さんは偶然出会った現地の駐在員のかたと、地元・倉敷の話題で大いに盛り上がります。
その後、社長ともつながり、個人スポンサーを契約。ガーナ2年目にチームを移籍した際には、「倉敷出身のサッカー選手をさらに応援したい」とチームのスポンサーにもなり、ガーナで初めての日本企業スポンサーとして話題になりました。
倉敷の縁がガーナでつながった、運命的な出会いでした。
母校とのコラボレーション。ガーナで現地視察を開催
2023年冬、母校の倉敷青陵高校サッカー部の生徒を連れて、ガーナの文化やサッカー事情を学ぶ視察ツアーを開催しました。
ガーナを訪れるだけでなく、ツアーの前にはワークショップも開催しました。スポンサーのプレイスポーツと連携し、スポーツ用品のリサイクル品を回収。倉敷青陵高校の生徒に「このスポーツ用品をどうやって現地に届けたら、理想的な国際協力につながるのか」を考える機会を提供しました。
全4回のワークショップを受講し、生徒は「サッカー大会を開いて、景品としてスポーツ用品をプレゼントする」という企画を考えます。そして実際に現地でサッカー大会を開催。
倉敷青陵高校からも備品を寄付し、Jリーガーの中野誠也(なかのせいや)選手やお笑い芸人の千原せいじ(ちはら せいじ)さんもスポンサーとして協力してくれたそうです。
結果は大成功で、現地の人との交流も深まりました。
高校生にとって貴重な経験となった現地視察。「アフリカと倉敷市内の学校をつなげて、教育の場を広げたい」という目標のもと、今後も継続していくために活動中です。
「倉敷で育った身として、倉敷の名に恥じないような活躍を世界でしていきたい。いつかはアフリカで得た経験を倉敷へ還元したいと思っています。倉敷出身の若者が泥臭くアフリカで挑戦しているということを、知ってくれたらうれしいです」と話します。
おわりに
森下さんを取材し、未知の環境にも挑戦し続ける姿がとても印象に残りました。
夢や目標だけでは終わらせず、きちんと実現させる行動力には目を見張るものがあります。苦労がありながらも、柔軟に前向きにサッカー人生を切り開いてきた森下さんのお話は、一つ一つに重みがありました。
森下さんは今後もアフリカで挑戦し続けていきますが、倉敷とアフリカをつなぐ架け橋のような存在として、活躍していくのだと思います。
倉敷市出身の若者が遠いアフリカの地で活躍している姿を、市民のかたに知ってもらい、地元のファンがさらに増えたら良いなと願っています。
取材協力:山九株式会社