古くから繊維製品を作り続けてきた倉敷は、文化庁が定める日本遺産ストーリーの「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」に認定されています。
多彩な繊維製品は、日本遺産ストーリーの構成文化財にもなっており、倉敷の歴史を振り返る際に欠かせない存在です。
そして、繊維産業は倉敷を支えるだけでなく、現在も伝統文化を継承し続けています。
倉敷のまちの発展とともにある繊維製品。
なぜ倉敷で盛んに作られるようになったのか、倉敷市の日本遺産推進室のかたに話を聞きました。繊維製品に携わる企業も合わせて紹介します。
記載されている内容は、2025年10月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
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倉敷を発展させた繊維製品たち
倉敷で古くから作られてきたおもな繊維製品は、以下のとおりです。
- 真田紐、畳縁などの細幅織物
- 足袋
- 帆布
- 学生服
- デニム、ジーンズ
普段使いできる身近なものから、お土産として人気のものまで、倉敷で作られている繊維製品は多様性に富んでいます。
なぜ倉敷で繊維製品が作られるようになったのか
昔、倉敷の南部は陸ではなく、遠浅の海でした。
「玉島」や「水島」など、地名に「島」が付くものが多いのは、それぞれがかつて島だったことに由来しています。
約400年前の江戸時代に干拓事業が始まり、海だったエリアは干拓され、陸地が作られました。

新たにできた陸地は、もともと海だったため、塩分を多く含んでいます。農業をおこなう場合も、塩分に強い作物しか育ちません。
そこで選ばれたのが、綿花やい草でした。


そして、児島や玉島で、盛んに綿花が栽培されるようになったことが、倉敷が繊維製品を作るきっかけとなりました。
綿花の生産から綿糸の製造、そして付加価値を付けた繊維製品へ
明治時代、国が紡績業に力を入れるようになり、倉敷でも玉島紡績所、児島の下村紡績所、倉敷紡績所の順に紡績所が開設されます。
なかでも、大原孫三郎が設立した倉敷紡績所は、倉敷で最後に開設された紡績所であるにもかかわらず、倉敷トップの売上を誇りました。最新の英国式の織機を導入し、高品質でスピードのあるものづくりを実現させたことが、事業拡大につながったと言います。

さらに、紡績業で得た多額の富はきちんと倉敷のまちに還元され、病院や保育所、大原美術館の設立など、市民の生活をより豊かなものにしていきました。
児島は耕作地が少ない地域だったため、原材料としての綿花の生産よりも、綿花を使ってさらに付加価値の高い織物の製造へとシフトしていきました。














































