JR児島駅から徒歩10分。
瀬戸大橋をくぐる周遊船や、瀬戸内国際芸術祭2025秋会期の会場となる香川県丸亀市・本島への定期船が発着する児島観光港に、木造の灯明台(とうみょうだい)があることをご存じですか。
それは「旧野﨑浜灯明台」です。
江戸時代から児島の町を見守り続けてきた旧野﨑浜灯明台の歴史や建築の特徴について取材しました。
記載されている内容は、2025年9月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
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野﨑家とは

清和源氏(せいわげんじ)を祖として、かつては多田姓・昆陽野姓を名乗っていた野﨑家は、16世紀後半に児島郡味野村に居住するようになったと伝えられています。
旧野﨑家住宅を築いた野﨑武左衛門(のざき ぶざえもん)は、足袋の製造販売をしていましたが、38歳のときに一念発起して味野村・赤﨑村の沖合に塩田を築造します。両村の名をとって野﨑姓を名乗るようになりました。
その後、所有する塩田の面積は約161ヘクタールにまで広がり、大塩田地主へと成長しました。さらに、岡山藩の命によって、福田新田約700ヘクタールの干拓事業も成功させます。
1890年には、武左衛門の孫にあたる武吉郎(ぶきちろう)が貴族院議員に選出されるなど、倉敷を代表する名家として名を連ねました。
野﨑家塩業資料館とは
「野﨑家の塩」といえば、現在も広く知られており、食塩だけでなく化成品(化学工場で化学変化を応用して作られる工業製品)など、塩を使ったさまざまな製品が今も作られ続けています。

野﨑家の塩を製造するのは、ナイカイ塩業株式会社。
1829年の創業から一貫して、瀬戸内海に臨む児島半島で製塩業を継続しています。
同じ地で塩業を続けているナイカイ塩業は、現存するなかでも最も歴史のある塩会社です。

現在も児島市民交流センター近くに大きなお屋敷と蔵が並ぶ「旧野﨑家住宅」は、2011年に岡山県の博物館として初めて公益財団法人に認定されたミュージアムです。
数多くの貴重な収蔵品が保管・展示されているほか、野﨑家の家業である塩業の歴史も、実物を交えて展示・解説しています。
旧野﨑浜灯明台とは

旧野﨑浜灯明台は、児島味野にある木造の灯明台です。
建築は文久3年(1863年)とされており、160年以上前に建てられたと伝えられています。旧野﨑家住宅を建てた野﨑武左衛門が、灯明台の北側にある塩釜神社の御神灯(ごしんとう)をおもな目的として建立しました。

神だけでなく民をも照らす灯台

旧野﨑浜灯明台が建立されたあたりは、当時塩業が盛んだった野﨑家の塩田の南端です。
塩を積み出す船着き場としても利用されていたことから、浜を出入りする船や近くを航行する船にとっては灯台の役割も果たし、「神と民を照らす存在」として重宝されてきました。
明治31年(1898年)には、本瓦の屋根の葺替(ふきかえ)などを伴う半解体改修をおこない、ほぼ現在の姿になりました。
その後、昭和49年(1974年)10月には、倉敷市重要文化財の指定を受け、昭和50年(1975年)8月に保存修理工事をおこない、今もなお児島の港を照らしています。
全国的にも数少ない日本式建築の灯明台遺構

旧野﨑浜灯明台が倉敷市重要文化財に指定された理由のひとつに、建築の珍しさがあります。
まず、海の目の前にある灯台ながら木造建築の高燈籠(こうとうろう)である点。
高さは9.69mです。
灯台といえば白い円柱形で石でできた西洋式のものが想起されますが、西洋文化が日本に入ってくる以前の江戸時代は、木造の灯明台が主流でした。
現存する木造の灯明台は、大阪の住吉神社の献灯をかねた高燈籠、香川県金比良町内にある高燈籠など、全国的にも数少ない貴重なものです。

また、屋根が本瓦葺(ほんかわらぶき)である点も、特徴です。
一枚一枚ていねいに敷き詰められた瓦が、より一層の重厚感を醸し出しています。
屋根の下には、部屋のような空間がありますが、灯台であるため暗くなると明かりが灯ります。その明かりを灯す部屋が設けられているのも、この日本的な建築の灯明台ならではの特徴です。


通常、扉のなかは開放していません。
今回は、取材のため特別に開錠していただき、撮影させていただきました。
現在も、夜になると旧野﨑浜灯明台が児島観光港をやさしく照らしています。

歴史ある旧野﨑浜灯明台について、旧野﨑家住宅学芸員の辻則之(つじ のりゆき)さんに話を聞きました。