観龍寺 山門

観龍寺 〜 幕末の動乱の傷跡を今に残す寺

観光

倉敷美観地区の北側にそびえる小高い丘は、鶴形山(つるがたやま)という山です。

鶴形山の上には阿智神社(あち じんじゃ)という神社、そして観龍寺(かんりゅうじ)というお寺が並んでいます。

じつは観龍寺には、日本の歴史が大きく動いた幕末期の動乱の跡が残っているんです。

倉敷でもおきた幕末の動乱に関わるスポット・観龍寺を紹介しますね。

観龍寺のデータ

観龍寺 山門
名称観龍寺
別名宝寿山(ほうじゅさん)
地域
宗派真言宗御室派
所要時間
所在地岡山県倉敷市阿知2丁目25-22
電話番号086-422-0357
駐車場あり
御本尊大日如来
御利益所願成就、現世安穏など
御朱印(納経料)あり(300円)
拝観時間日中のみ
休観日なし
拝観料無料
拝観料・納経料の納め方現金
タバコ
トイレ
子育て
バリアフリー
ホームページ

観龍寺とは

観龍寺 参道

観龍寺は、美観地区の北にそびえる鶴形山の上にあります。

鶴形山を南北に貫く「鶴形山隧道(つるがたやま ずいどう)」の向かって左側(西側)に参道がありますよ。

観龍寺は「宝寿山(ほうじゅさん)」とも呼ばれ、宗派は真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)。

大日如来(だいにちにょらい)が本尊です。

大日如来は、「宇宙の真理そのもの」を表した仏様で、日本の密教の中で重要な仏様ですよ。

観龍寺 山門 寺号標

平安時代の寛和元年(985年)、現在の倉敷市北部で観龍寺は開かれました。

倉敷村(現 美観地区周辺)には室町時代中に移転しています。

およそ1040年以上という倉敷でも有数の古い歴史をもつお寺です。

観龍寺への行き方

鶴形山の南側を東西にはしる通りがあります。

この通りの倉敷公民館新児島館(旧 中国銀行)・工芸品店の竹宝堂のある交差点を境に、西側を「本通り」、東側を「本町通り」といいますよ。

観龍寺へ向かう交差点に建つ「倉敷公民館」

倉敷公民館

観龍寺へ向かう交差点に建つ「新児島館」

新児島館

観龍寺へ向かう交差点に建つ「竹宝堂」

竹宝堂

 

観龍寺へ行くには、倉敷公民館・新児島館・竹宝堂のある交差点を目指しましょう。

この交差点を北側(鶴形山側)に折れると観龍寺への入口があります。

まずは、倉敷公民館・新児島館・竹宝堂のある交差点の行き方を説明しますね。

▼下の写真は、本通りを西(倉敷駅側)から東(阿知神社側)方面を見たところ。

観龍寺へのアクセス(本通り西側から)

直進して、倉敷公民館・新児島館・竹宝堂のある交差点を()に折れます。

▼つづいて下の写真は、本町通りを東(阿知神社側)から西(倉敷駅側)方面を見たところ。

観龍寺へのアクセス(本町通り 東側から)

直進し、倉敷公民館・新児島館・竹宝堂のある交差点を()に折れます。

つづいて、倉敷川畔(くらしきがわはん)からの行き方を説明しますね。

▼目印は倉敷川の大原美術館前にかかる今橋(いまばし)です。

観龍寺へのアクセス 倉敷川畔の大原美術館前から北を望む

今橋をわたり、語らい座 大原本邸(旧 大原家住宅)と有隣荘の間の道を進みます。

およそ60メートル進むと、本通りと本町通りの境となる倉敷公民館・新児島館・竹宝堂の交差点に出ますよ。

観龍寺へのアクセス 倉敷川畔の今橋から北を望む

交差点から、鶴形山方面(北)を見るとトンネルが見えます。

▼下の写真は、倉敷公民館・新児島館・竹宝堂のある交差点から、北(鶴形山方面)を見たところです。

観龍寺へのアクセス 倉敷公民館前から北を望む

50メートルほど先にトンネル、山の上に観龍寺の建物が見えていますね。

このトンネルは鶴形山隧道といいますよ。

隧道入口の手前西側(向かって左側)に観龍寺への入口があります

▼鶴形山隧道の入口の、向かってすぐ西側(向かって左)に観龍寺への参道の石段がありますよ。

観龍寺 参道口

▼石段の登り口に「観龍寺」と彫られた石柱が建っているので、確認してみてくださいね。

観龍寺 参道口の石段

▼石段を登ると門があり、境内へ入ります。

観龍寺の参道

観龍寺の見どころ

観龍寺 境内

観龍寺は境内が広大です。

そのため、見どころを厳選して紹介しますね。

なお、境内には山門が開いていれば自由に入ることができますが、本堂などの建物の中には入れません。

山門と槍の傷跡

観龍寺 山門

まずは、石段を登ったところにある山門(さんもん)。

境内への入口ですよ。

正面の大きな入口の左右に小門があります。

左側の小門の上の鴨居部分が見どころです。

観龍寺 山門 倉敷浅尾騒動時の槍の傷跡

左の小門の鴨居に傷跡があります。

じつは、この傷は歴史的価値のあるものなんですよ。

観龍寺 山門 倉敷浅尾騒動時の槍の傷跡

江戸時代末期に長州奇兵隊が倉敷代官所を襲撃するという事件がありました。

この事件は「倉敷浅尾騒動(くらしき あさお そうどう)」と呼ばれています。

倉敷代官所襲撃のあと、長州奇兵隊は観龍寺の境内に立てこもりました。

このときに奇兵隊員が槍で山門を傷をつけた跡なのです。

観龍寺 山門 倉敷浅尾騒動時の槍の傷跡

幕末の日本は、倒幕派と佐幕派の争いが起こっていた時代でした。

観龍寺の山門の傷は、当時の争いを生々しく今に伝えています。

なお、倉敷浅尾騒動については、あとで詳しく説明しますよ。

▼ちなみに、山門前から参道を振り返ると、みごとな景観を楽しめます

観龍寺 山門前からの眺め

妙見堂

観龍寺 妙見堂(妙見宮)

山門をくぐると、すぐ右手に見えるのが妙見堂(みょうけんどう)。

妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれています。

中には太鼓が奉納されているんですよ。

観龍寺 妙見堂(妙見宮)

妙見堂の前には鳥居があります。

もともと、観龍寺は阿智神社(元の名前は妙見宮)を管理する寺でした。

明治時代初期に「神仏分離令」で妙見宮と分かれたのを期に、観龍寺の境内に妙見堂が建てられています。

鳥居があるのは、かつて観龍寺が妙見宮を管理していたときの名残といえるでしょう。

大師堂

観龍寺 大師堂

境内のほぼ中央にあるのが、大師堂(だいしどう)です。

大師堂は、「大師」の号を与えられた僧を祭るお堂。

大師の号は、高尚な僧にしか与えられない尊称でした。

観龍寺では江戸時代に2度の火災の被害がありましたが、大師堂は火災後の享和年間(1801〜1804年)に建てられたものです。

本堂

観龍寺 本堂

本堂(ほんどう)は、境内の西側、山門からもっとも奥の方にあります。

観龍寺の本堂は、江戸時代に2度の火災にあって焼失しました。

現在残っている本堂は、約270年前の寛延2年(1749年)に再建されたものですよ。

観龍寺 本堂

本堂の中には、大日如来が祭られていますよ。

賽銭箱がありますので、賽銭を納めて、しっかりと合掌して拝みましょう。

なお、本堂の中には入れません。

鐘楼

観龍寺 鐘楼

境内の中央南側、ちょうど山門をくぐって左手に見えるのが鐘楼(しょうろう)です。

鐘楼は梵鐘(ぼんしょう)という鐘が置かれた建物で、寺を象徴するもの。

現在の観龍寺の鐘楼は、昭和末期のものです。

鐘楼前・仙掌庵からの眺め

観龍寺 鐘楼前にある仙掌庵

鐘楼の前には仙掌庵(せんしょうあん)という建物があります。

▼仙掌庵の前は展望台のようになっていて、ここから美観地区の町並が一望できますよ。

観龍寺 鐘楼前・仙掌庵前からの眺め

倉敷美観地区の見晴らしスポットとして人気で、写真の撮影ポイントのひとつになっています。

境内東側の「鶴形山の鐘楼」

観龍寺 境内東側の鐘楼

観龍寺の境内のすぐ東側の外にも鐘楼があります。

境内からも見える、とても大きな鐘楼です。

これは「鶴形山の鐘楼」と呼ばれていて、正確には観龍寺の境内のものではありません。

鶴形山の鐘楼があるのは、観龍寺の山門の前を東(向かって右)に進んで、すぐの場所となります。

観龍寺 境内東側の鐘楼

この鐘楼は、江戸時代中期の寛保2年(1742年)に、倉敷村の庄屋・小野氏が建てたもの。

そして、倉敷村や倉敷の町に時間を知らせるために、住民が交代しながら鐘が鳴らされていて、「時の鐘(かね)」と呼ばれていました。

当時のものは現存していませんが、現在ある鐘楼は、昭和24年(1949年)に大原総一郎氏が再建し、旧倉敷市へ寄贈したものです。

また、時の鐘をならすのも中断していましたが、昭和52年(1977年)に倉敷ライオンズクラブが自動鐘打ち機を倉敷市に寄贈し、時の鐘が復活しました。

観龍寺の御朱印

観龍寺では、御朱印をいただくことができます。

▼御朱印には、本尊である大日如来の名が大きく書かれていますよ。

観龍寺の御朱印

御朱印をいただくときは、300円の納経料を納めましょう。

なお、状況によっては御朱印をいただけないことがあります。

観龍寺の歴史

最初は現倉敷市の北部にあった

観龍寺は平安時代前期の寛和元年(985年)に開かれたと伝えられています。

建てられた場所は現在の場所ではなく、窪屋郡(くぼやぐん)の子位庄(こいのしょう)でした。

▼子位庄は現在の倉敷市北部、西岡(にしおか)地区周辺にあたります。

当時は観龍寺という名前ではなく、宝積院(ほうせきいん)という名前で、北斗山(ほくとざん)とも称していました。

このときは、西安寺(さいあんじ)慈照院(じしょういん)というお寺があって、西安寺の末寺(すえでら:大きなお寺の配下となる小寺)だった12のお寺のひとつだったのです。

ちなみに、西安寺は奈良時代に鑑真(がんじん)が開いたといわれています。

また、平安時代に西安寺の末寺だった12のお寺のうち、行願院(ぎょうがんいん、旧 財善院:ざいぜんいん)と龍昌院(りゅうしょういん)の2寺院が、現在も西岡地区に残っているんですよ。

近世はじめに現在地へ移転

戦国時代の1500年代前半、西安寺と末寺は戦火に巻き込まれてしまいます。

宝積院は子位庄から倉敷村・妙見山(みょうけんざん:現 鶴形山)の南のふもとに移転しました。

▼移転した場所は、現在の観龍寺の石段の登り口あたりで、観龍寺の駐車場があるところといわれています。

観龍寺 参道口 参拝者用駐車場

観龍寺の参拝者用駐車場

 

文禄3年(1594年)には、現在の鶴形山山上・観龍寺墓地がある場所に移転。

さらに江戸時代初頭の寛永元年(1624年)に、現在地である鶴形山の上に境内を移し、名前も現在の観龍寺に変え、宝寿山とも名乗るようになりました。

このとき境内の土地は、当時の倉敷住民だった大島屋次郎右衛門という人物から寄進を受けています。

また寛永5年(1638年)、鶴形山に古くからあった妙見宮(みょうけんぐう:現 阿智神社)の別当寺(べっとうじ:神社を管理するお寺)になりました。

江戸時代以前の日本では、神道(神社)と仏教(寺)が互いに混ざり合っていた「神仏習合(しんぶつ しゅうごう)」「神仏混淆(しんぶつ こんこう)」という状態だったためです。

その後、江戸時代中の延享年間(1744〜1748年)に2度の火災にあってしまい、本堂など伽藍(がらん:寺の境内にある建築物)の多くを焼失してしまいました。

現在残っている本堂は、寛延2年(1749年)に再建されたものです。

江戸時代の観龍寺は、文化・文政年間(1804〜1830年)に教存持戒という僧が活躍し、名僧といわれました。

その影響で、観龍寺には頼山陽(らいさんよう)や菅茶山(かんちゃざん)といった文化人が訪れています

倉敷浅尾騒動

幕末になると日本各地で倒幕派と佐幕派の争いが勃発します。

じつは倉敷の地でも幕末の争いはおこっていました

倒幕派であった長州藩奇兵隊員のうち、立石孫一郎(たていし まごいちろう)が率いるおよそ100人が、慶応2年(1866年)4月10日に倉敷代官所(だいかんじょ:幕府の代官が業務をおこなう役所、現 アイビースクエア)を襲撃。

倉敷代官は不在でしたが、中にいた男女11人を殺傷します。

倉敷は天領(江戸幕府の直轄領)で、幕府から派遣された代官が治めていた重要拠点だったため、倒幕派から狙われたのです。

現在の倉敷アイビースクエアに残る代官所時代の遺構

現在の倉敷アイビースクエアに残る倉敷代官所時代の遺構

 

倉敷代官所の襲撃後、隊員らは観龍寺に立てこもり休息しました。

このとき、隊員によって山門の鴨居に槍で傷がつけられ、現在も残っているのです。

翌々日の4月12日に隊員らは、現在の倉敷市の北側・総社市門田(もんで)にあった浅尾藩(あさおはん)の陣屋(じんや:藩の役所となった屋敷)を焼き討ちしました。

この一連の事件は、倉敷浅尾騒動(くらしき あさお そうどう)と呼ばれています。

明治になって阿智神社と分離

明治時代になると、神社とお寺を明確に分けるために明治2年(1869年)に「神仏分離」がおこなわれました。

そのため観龍寺の管理下にあった妙見宮は、阿智神社として分離・独立

また、観龍寺には境内に妙見堂が建てられました。

昭和時代末期には、鐘楼が再建されています。

年表

時期 出来事
奈良時代 備中国 窪屋郡 子位庄(現 倉敷市西岡周辺)に鑑真が西安寺を開山。
寛和元年(985年) 西安寺の末寺12坊のひとつとして、北斗山 宝積院(のちの観龍寺)が建立される。
戦国時代(1500年代) 西安寺が戦火に巻き込まれ、宝積院は妙見山(現 鶴形山)の南麓に移転。
文禄3年(1594年) 現在の鶴形山山上にある観龍寺墓地のところに移転。
寛永元年(1624年) 現在地(鶴形山山上)に移転し、宝寿山 観龍寺に改称。
寛永5年(1638年) 鶴形山にある妙見宮(現 阿智神社)の別当寺となる。
元文4年(1739年) 観音堂が建立されて、「備中西国三十三ヶ所観音霊場」の二十九番霊場となる。
延享元年(1744年) 火災により伽藍の多くを焼失。
延享4年(1747年) 建物を再建するも、3ヶ月後に再び火災が発生し、焼失。
寛延2年(1749年) 本堂を再々建。
宝暦11年(1762年) 客殿を再建。
明和5年(1768年) 山門を再建。
安永年間(1772〜1781年) 諸堂を再建。
享和年間(1801〜1804年) 大師堂を建立。
慶応2年(1866年) 倉敷浅尾騒動がおこり、観龍寺境内に長州奇兵隊が立てこもる。
明治2年(1869年) 神仏分離により妙見宮が阿智神社として独立。観龍寺境内に妙見堂を建立。

終わりに

観龍寺 本堂

観龍寺は鶴形山の上にあるので、境内からの景観をぜひ眺めてみてはいかがでしょうか。

また、天領で代官がいた倉敷の地でも、幕末の動乱は避けては通れませんでした。

その傷跡を残している観龍寺は、倉敷の歴史を語る上で外せないスポットです。

観龍寺に参拝して、倉敷の歴史を感じてみませんか。

モデル:りる(インスタグラム)
写真撮影:大嵩 竜一 (インスタグラム)、アサノ・ヨウスケ

観龍寺のデータ

観龍寺 山門
名称観龍寺
別名宝寿山(ほうじゅさん)
地域
宗派真言宗御室派
所要時間
所在地岡山県倉敷市阿知2丁目25-22
電話番号086-422-0357
駐車場あり
御本尊大日如来
御利益所願成就、現世安穏など
御朱印(納経料)あり(300円)
拝観時間日中のみ
休観日なし
拝観料無料
拝観料・納経料の納め方現金
タバコ
トイレ
子育て
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地域の文化・地理・歴史・食べ物などに精通するフォトライター・コンテンツ制作者。カメラ片手に街を散策。倉敷観光に深みとコクをあたえます!

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