高梁川志塾は、高梁川流域におけるSDGsの達成を目指し、地域活動の中心的役割を担える人材を創出することを目的とした塾です。
2021年6月から2021年9月にかけて高梁川志塾 第2期が行なわれており、高梁川流域で活躍する講師たちによる約30講義が行なわれました。
2021年9月19日(日)は、高梁川流域学校校長で民俗学者の、神崎宣武(かんざき のりたけ)さんが登壇。
講義のようすをレポートします。
記載されている内容は、2021年10月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
目次
高梁川志塾 第2期のデータ
名前 | 高梁川志塾 第2期 |
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期日 | 高梁川志塾 第2期の期間:2021年6月27日~2021年9月26日 |
場所 | 倉敷市中央2丁目13-3 |
参加費用(税込) | 詳細は高梁川志塾ホームページを確認。 1.SDGs探求コース受講生 一般 : 12,000円、学生 : 8,000円 (全プログラムヘの当日参加、アーカイブ視聴が可能) ※会場受講・オンライン受講に関わらず一律料金 2.聴講生(座学のみ参加) 会場受講:1,500円/回(人数制限あり) オンライン・アーカイブ受講:500円/回 ※後日参加者のみ閲覧できるページを案内予定。 ※講座によっては、別途、実費を徴収する場合があり。 ※講座によっては、無料公開の場合があり。 |
ホームページ | 高梁川志塾 | 高梁川流域学校 |
高梁川志塾の概要
高梁川志塾は、倉敷市委託事業として一般社団法人高梁川流域学校が運営する、高梁川流域における歴史・文化・産業・フィールドワークなどを通し、地域づくりや、持続可能な地域を担う人材育成、行動につなげることを目指す塾です。
受講コースは、以下の2種類。
- 実習やプレゼンテーションを行なう「SDGs探究コース」
- 座学として任意の講座を受講する「聴講生コース」
2020年11月から2021年2月にかけて高梁川志塾 第1期が開催され、2021年6月からは第2期が始まりました。
開校式が2021年6月27日(日)に行われて、2021年9月26日(日)の修了式までに約30講義が開講されました。
講義の内容は、以下の5種類です。
分類 | 内容 |
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SDGsビジョン編 | 高梁川流域の2030年のビジョンと現状の取り組みを、実際に活動している講師から聞くことのできる講座 |
教養編 | 高梁川流域における、歴史や文化・産業などの知識を得るための講座 |
スキル編 | プレゼンテーション、ITツールの利活用、ブログやSNSの活用など、地域で活動を遂行するうえで必要なスキル・ノウハウを習得する講座 |
ローカルSDGsミッション編 | SDGsの17のゴールを高梁川流域として捉え直して目標設定するワークショップ |
フィールドワーク | 高梁川流域における地域おこしの体験学習 |
第1期では、SDGsビジョン編、教養編、スキル編の3種類でしたが、第2期からローカルSDGsミッション編、フィールドワークが新たに加わりました。
より詳しい内容を知りたいかたは、「⾼梁川志塾」の特設ページを確認してみましょう。
高梁川流域の特長と持続可能性について
今回の講義は、オンライン開催で、住吉町の家 分福から配信されました。
講義には、高梁川志塾 第2期の受講生だけではなく、第1期の卒業生からも数名が参加。
講義中には、チャットの機能を使ってそれぞれに持っている知識や考えを交換する場面もありました。
備中地域と三大河川
そもそも、備中地域という地域の区分はいつからあるのでしょうか。
その始まりは、奈良時代にさかのぼります。
大宝律令が制定されたときに備中国ができ、約1300年以上経った2021年現在でも、備中という地域の区分が使われているのです。
そして川というものには、本流だけではなく、たくさんの支流があります。
なかでも高梁川は、成羽川や小田川などの枝流が広がり、備中一円に流域を持つ、全国でも珍しい川だそうです。
神崎先生は、岡山県の三大河川の流域面積、全長、支流数から、高梁川の特長について話しました。
流域面積 | 全長 | 支流数 | |
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高梁川 | 約26万平方キロメートル | 117キロメートル | 84 |
旭川 | 約20万平方キロメートル | 150キロメートル | 132 |
吉井川 | 約20万平方キロメートル | 137キロメートル | 137 |
高梁川は、他の2つの河川に比べ、全長が短く、支流数も少ないですが、流域面積は一番広いのです。
川の流域面積が広いと、日々暮らすための水を得ることができ、人々は生活をしやすくなります。
山が深い場所だと、岩山や谷川を流れる水を直接とったり、井戸を掘って地下の水をくみ上げたりしながら生活のために必要な水を得なければなりません。
しかし備中地域は高梁川や支流の川があるため、水が枯れにくく、他の地域よりも生活を立てやすいのです。
人々の暮らしは川に流れ込む水で成り立っており、高梁川に流れ込む水が私たちの生活を支えている、と神崎さん。
また、川の水は飲料水として使うだけでなく、物を運ぶためにも使われることがあります。
山から川、川から海への連携が、備中地域では古くから築かれているのです。
備中地域では海から川へ物が上がってくることは少なく、物産で考えると出荷のほうが多いために他の地から入ってくるものは多くありません。
これは、地域のなかの生活が安定しており、豊かであるということの証明になります。
鉄について
江戸時代以前の有名な鉄の生産地は出雲でしたが、備中でも鉄の生産が行なわれていました。
出雲ではたたら製鉄という方法を用いて鉄を生産していたのに対し、備中ではその前の段階である鉄穴流し(かんなながし)を行なっていた跡が発見されています。
平安時代の畿内の文献にも、「備中刀」や「あぞ鍬」という言葉が残っており、この刀や鍬の鉄の部分は備中で生産された鉄なのです。
備中では鉄穴流しの溝がいくつも彫られており、またその溝は人工的に作られたものであるため下流に行くほど広がり、何百年もの歴史のなかでだんだんと扇状地形ができていきます。
新見・千屋地域では、扇状地形が顕著に見られるそうです。
現代では住宅地ができているため大規模な発掘調査は難しく、鉄穴流しの「鉄の道」があったのかどうか、その道に川が含まれていたのかはわかりません。
しかしいずれにせよ、製鉄が簡単ではなかった古代の文献に残されていることから、備前の刀よりも古い時代に、備中刀が存在していたことは確かなのです。
牛について
備中地域で有名な牛といえば、新見市の千屋牛です。
千屋牛は肉食牛としては日本で一番古い牛で、肉を食べ始めた幕末から明治にかけて江戸や関西に出荷されました。
江戸時代から明治時代にかけては、鉄商品よりも牛のほうが、商品価値が高く、また生産効率もよかったそうです。
現在では牛といえば食品というイメージが強いと感じますが、江戸時代までの西日本では牛は荷を運んだり田を耕したりする労働力として重宝されていました。
中国地方では、若い牛は山の中で働き、歳をとるにつれて少しずつ山から離れながら働き、老年の牛は平野部で働きます。
山の中にある田は棚田になっており段差が多く、また土が固いため、耕すために労力が必要です。
そのため、より力がありしっかりと働くことのできる若い牛が、山の中で働いていました。
まず千屋で働いた牛は、歳をとると千屋の市でさばきにかけられ、次は吉備高原で働きます。
その後さらに歳をとった牛は、次に高梁の市でさばきにかけられ、平地部へ下りてくるのです。
千屋の旧家では、お金を稼ぐ方法が、製鉄や鉄穴流しから牛の養育・出荷へ切り替わったことが江戸時代の記録で明らかになっています。
農家は博労(ばくろう)という牛の市での仲介業者から牛を借り、飼育しながら農作業の労働力に使っていました。
神崎さんが子どもの頃には、どこでも牛が飼われていて、何年かに一度牛が入れ替わっていたそうです。
酒について
備中地域では、玉島から鴨方にかけて、酒蔵がたくさんあります。
江戸時代、備中で生産された酒は、灘へと運ばれ、灘の酒の97パーセントが江戸に運ばれていたそうです。
江戸には若い男性が多く、江戸中期には180万人ほどの飲酒人口がいたため、1人あたり一升瓶40本分のお酒を消費していたことになります。
そのほとんどが灘で生産され、灘から江戸へ下る「下り酒」として酒を飲む江戸の若い男性に好まれたのです。
当時の酒は樽で運ばれていたため、江戸まで酒樽を運ぶ船は樽廻船と呼ばれました。
灘の酒は味が良く「下り酒」と呼ばれたのに対し、関東近郊で作られた酒はあまり味が良くなかったため、「下らない酒」と呼ばれたことが、現在使われている「くだらない」という言葉の語源になったという説がある、と神崎さん。
味が良いとされる灘の酒には、備中で生産され、灘へ運ばれた酒も含まれます。
備中の酒は、灘の酒のように名前を知られることはなかったが密かにシェアを伸ばしていたことになる、という話は印象的でした。
高梁川の支流
高梁川の支流のなかでも、成羽川と小田川は特に大きな支流です。
神崎さんは、同じ岡山県のなかにある旭川、吉井川の支流と比べても、何倍も大きい支流で、備中地域においては大きな役割を持っていた、と話します。
特に、成羽川は物流において重要な川です。
鉄道ができるまでは、山地と海をつなぐものは川であり、高梁市周辺で生産された木炭や弁柄、備中葉を高梁川の下流の地域まで運ぶために成羽川を通っていました。
また、成羽川には急な谷がなく流れが穏やかであるため、水車が多くあります。
水車は、安定した機械労働力となり、玄米を脱穀して白米にするのに使われていました。
備中のことばで、脱穀することを「米をふむ」といいますが、これは水車を使っていたことに由来するそうです。
古くから人と物資はつながっているということを、川を通してたどれるのだと、神崎さんは話します。
備中地域のなかで多くの物資が動き、それに合わせて商売繁盛や五穀豊穣を願う信仰も生まれ、田植祭や秋祭り、山入などの行事や、神社仏閣の建立が行なわれました。
講義では、高梁市に多くあるえびす様をまつる神社の話を聞きました。
えびす様は、海で漁をする海洋民の信仰を受ける神です。
海から離れた高梁市に、海洋民が信仰する神をまつった神社があるのは不思議でしたが、漁でとれた魚を高梁市で多く売れるように願ってまつられた、という理由を知り当時の商人たちの思いに触れることができた気がしました。
この先の高梁川流域
神崎さんは、成羽川や小田川、高梁川は歴史上きわめて安定した川だ、と話します。
そのため、山と海をつなぐルートとして、長い間、川が使われてきたのです。
歴史を通して見れば災害の少ない備中の川ですが、安定した時期が長かったために災害に対して油断してしまい、過去には大きな水害が起きてしまったこともありました。
広島県福山市にある山野川が小田川の源流であり、高梁川へと注いでいます。
川の流域というものは、想像しているよりもずっと広く、規模の大きいものなのです。
私たちは今一度、川の規模や流れの角度を見直し、どこに災害の危険が潜んでいるか、ということを知っておかなければなりません。
この先、高梁川流域がどうなっていくのか、またどのようになってほしいのか。
それを考えるのは、私たちに与えられたミッションなのです。
おわりに
民俗学とは、民間に伝承された風習や信仰の調査を通して、庶民の生活や文化の発展の歴史を研究する学問です。
これまでの高梁川志塾の講義では、高梁川流域の現在や未来について知り、考える講義が多かったように思っていましたが、高梁川流域に住んでいた人々の歴史を知ることで、より理解が深まったように感じます。
高梁川流域、備中地域の未来を考えるうえで切っても切り離せない地域の文化や歴史について、深く知ることのできた講義でした。
高梁川志塾 第2期のデータ
名前 | 高梁川志塾 第2期 |
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期日 | 高梁川志塾 第2期の期間:2021年6月27日~2021年9月26日 |
場所 | 倉敷市中央2丁目13-3 |
参加費用(税込) | 詳細は高梁川志塾ホームページを確認。 1.SDGs探求コース受講生 一般 : 12,000円、学生 : 8,000円 (全プログラムヘの当日参加、アーカイブ視聴が可能) ※会場受講・オンライン受講に関わらず一律料金 2.聴講生(座学のみ参加) 会場受講:1,500円/回(人数制限あり) オンライン・アーカイブ受講:500円/回 ※後日参加者のみ閲覧できるページを案内予定。 ※講座によっては、別途、実費を徴収する場合があり。 ※講座によっては、無料公開の場合があり。 |
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