倉敷市船穂町水江にひっそりと佇む小さな遺跡。
これは江戸中期の遺構、閘門式運河の水門「一の口水門」です。
かつて水運が物資輸送の主流だった時代に、干拓地を通って玉島港へとつながる運河「高瀬通し」の起点として、重要な役割を果たしていました。
日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」の構成文化財の一つで、倉敷市の史跡にも指定されている「一の口水門」を訪れました。
記載されている内容は、2025年10月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
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目次
一の口水門とは


「一の口水門」は江戸時代前期の備中松山藩主・水谷勝隆(みずのや かつたか)が新田開発をおこなった際に、現在の倉敷市船穂町水江の高梁川右岸に1645年(正保2年)に造られた石造りの水門です。
規模などは以下のとおりです。
- 様式:閘門式(こうもんしき)水門
- 高さ:7.12m
- 幅:2.58m
運河「高瀬通し」の起点となった一の口水門
備中松山藩は干拓前、藩の玄関口である玉島港まで高梁川を利用して舟で物資を運んでいました。
その後の干拓によって領地は広がりましたが、舟はいったん海に出て大回りをして玉島港まで行かなければならなくなりました。

このため、一の口水門から用水路を利用して運河が整備され、1674年(延宝2年)頃、約9kmの閘門式運河「高瀬通し」として、海に出ることなく高瀬舟で玉島港との間で荷物の運搬ができるようになったのです。
一の口水門は高梁川から高瀬舟が入る入口となり、200年以上にわたり運河の水門として利用されました。
その後、1925年(大正14年)の高梁川改修工事で改造され、水門としての役割を終えましたが、高瀬通しは今も残っています。
「閘門式運河」とは
閘門式運河は、二つの水門を利用して水位を調整し舟を通過させる方式の運河のことで、「一の口水門」は高梁川との間で水位調節する閘門です。

ここでは「一の口水門」の下流300mあたりに「二の水門」を設け、その間に水を溜めて高瀬舟を通す方法がとられていたと伝えられています。
閘門式運河としては日本最古に属し、1914年に開通した有名なパナマ運河より200年以上前に造られたものです。そのことから、当時の高い技術力がうかがえます。
高瀬舟で何を運んでいた?
高瀬舟には、下りでは備中北部の農産物が、上りでは海産物が積まれていたそうです。
その後、江戸時代の終わり頃には、備中北部の鉄やたばこなど松山藩の特産品が、高瀬舟を経て玉島港から全国に出荷され、備中北部の経済を支えました。
歴史的価値
高瀬通しを行き来した高瀬舟は50石積みといわれるものもあり、1石をおよそ150kgと換算すると、7.5トンのトラックに匹敵する荷物を運んでいた舟もあったと考えられます。
現在は用水路のようにしか見えないこの運河も、当時は物流の大動脈として地域を支えていました。
その起点となる一の口水門には高梁川から運河へ入ってくるときに水位調節するための工夫の跡が残されていることや、高瀬通しの終点となる玉島港とあわせて、玉島の歴史に欠かせない、日本遺産のストーリーを構成する価値のある文化財といえます。
2005年12月には倉敷市の史跡にも指定されています。



現在の一の口水門

1925年(大正14年)の高梁川改修工事で、一の口水門は水門としての役割を終えました。つまり、水門としての役割は見た目上だけになっています。
にもかかわらず、今も水が流れ、用水路として機能していることを不思議に感じるかたもいるかもしれません。実は倉敷市酒津にある、高梁川東西用水取配水施設から農業用水が配分されており、「西岸用水」として今も使われています。

左から西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水

下記の地図を見るとわかるように、高梁川の地下には配水管が設置されており、川を渡って高梁川西側の起点にあたる場所が「一の口水門」がある場所です。

《「高梁川東西用水組合 設立 100年のあゆみ」より引用》
用水は一の口水門がある場所からサイフォン方式で取り入れられ、現在も玉島港まで続いています。

おわりに

倉敷市船穂町水江に佇む高さ7mほどの石の水門には、日本人の優れた土木技術と、知恵と工夫が反映されていました。
高瀬通しの出発点「一の口水門」は歴史の生き証人として、先人の功績を今に伝えています。