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玉島町並み保存地区 〜 北前船との備中綿の取引で瀬戸内有数の商都「西の浪速」として栄えた港町。商人の町として茶の湯文化も根付く

玉島町並み保存地区 〜 北前船との備中綿の取引で瀬戸内有数の商都「西の浪速」として栄えた港町。商人の町として茶の湯文化も根付く

観とこ / 2025.06.26

玉島(たましま)は、旧 玉島市の中心市街地です。

1967年(昭和42年)に旧 倉敷市・児島市・玉島市の3市が合併し、現在の倉敷市を新設。以降は倉敷市の玉島地区となりました。

旧玉島市エリアは倉敷市の西部にあたり、玉島市街地はJR新倉敷駅の南西およそ2.3kmの場所に位置します。

玉島市街地は、江戸時代前期に造られた玉島港玉島湊とも)を中心に栄えた港町が起源です。玉島港町は瀬戸内有数の商都として、「西の浪速(なにわ)」と呼ばれるほど繁栄しました。

現在も玉島市街地には古い建造物が多く残っており、街中を歩くと、かつての港町としての栄華が感じられるのです。

そこで、西の浪速・玉島の町並みの歴史や魅力・文化などを紐解いていきます。

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記載されている内容は、2025年6月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。

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玉島の歴史

玉島の町並みが生まれた歴史について、詳しく見ていきましょう。

備中松山藩主による干拓と港の発展

干拓前の玉島市街地の推定図(港橋北詰の案内板より)
干拓前の玉島市街地の推定図(港橋北詰の案内板より)

現在の旧 玉島市エリアの平野部は、ほとんど海でした。
江戸時代初期から少しずつ干拓されていき、現在のような広い平野が生まれたのです。

干拓を進めたのは、1642年(寛永19年)に備中松山藩(現 高梁市周辺)藩主となった水谷勝隆(みずのや かつたか)。
現在、羽黒神社が鎮座する丘・羽黒山は「阿弥陀島(あみだじま)」と呼ばれる小島でした。その南側の乙島や玉島一丁目〜三丁目などは「乙島」、西側の阿賀崎・柏島なども「柏島」という島だったのです。

そして水谷氏は阿弥陀島から乙島と、阿弥陀島から柏島へ向け、干拓のための堤防を築きます。
とくに阿弥陀島〜柏島の堤防は幅50m、長さ400mほどにおよぶ大規模なものでした。

この干拓により、玉島新田阿賀崎新田が誕生したのです。
玉島新田・阿賀崎新田の南端部や阿弥陀島、乙島、柏島によって入江状の地形が生まれ、港として絶好の場所となりました。

そのため、入江は港として発展。
これが玉島港です。

備中松山は内陸の地だったため、玉島港は備中松山藩の外港として機能しました。

備中松山と玉島港を効率的に連絡するため、高梁川(現在の倉敷市船穂)と玉島港を結ぶ全長およそ9kmの運河「高瀬通し」が造成されます。

タテソース製造元の豊島屋付近は、高瀬通しの港町側の起点で、かつて船を停泊させる船溜まりがあった
タテソース製造元の豊島屋付近は、高瀬通しの港町側の起点で、かつて船を停泊させる舟溜まりがあった

高瀬舟による、備中松山〜高梁川〜高瀬通し〜玉島港という水運が生まれました。

港町の形成

江戸時代 干拓後の玉島港周辺の推定図(港橋北詰の案内板より)
江戸時代 干拓後の玉島港周辺の推定図(港橋北詰の案内板より)

高梁川・高瀬通しによる水運により、備中松山藩の外港として発展した玉島港。

港が発展すると、港の周辺に商人などが集まり港町が生まれました。阿弥陀島と乙島(阿賀崎)を東西に結んだ堤防上に、商家町が形成されます。

この商家町は「新町(玉島新町、阿賀崎新町)」と呼ばれ、堤防上の町を東西に貫く道は「新町通り」と呼ばれました。新町周辺には備中松山のほか、総社(総社市)や川辺(倉敷市真備町)など備中国各地から商人が集まったといいます。

玉島港には北前船(きたまえぶね、千石船)が寄港するようになり、北前船との商取引が盛んになりました。

新町の堤防に北前船が横付けし、荷物の上げ下ろしができたため、やがて新町が玉島港町の中心をなすようになります。

北前船の寄港地・商都としての繁栄

明治初期の玉島港の絵図(港橋北詰の案内板より)
明治初期の玉島港の絵図(港橋北詰の案内板より)

玉島の港町がもっとも栄えたのは、元禄時代(1680〜1709年)ごろです。

最盛期には新町に43軒もの問屋があり、200棟を超える土蔵が軒を連ねていたといわれています。

玉島港には、周辺の備中南部一円で栽培された綿「備中綿」や、その綿を加工した綿製品が集積されていました。
この備中綿・綿製品と、北前船が運んできたニシン粕(カス)や干鰯(ほしか、乾燥させたイワシ)との取引がもっとも多かったといわれています。

ニシン粕や干鰯は、綿花栽培の肥料として使われました。
玉島から売られた主なものは、備中綿・綿製品などでした。

こうして玉島の港町は物資の集散地として栄え、「西の浪速」と呼ばれる瀬戸内有数の商都となり、経済都市として繁栄したのです。

なお元禄時代中に玉島港町の領主が変わり、備中松山藩領・丹波国亀山藩(現 京都府亀岡市が拠点)領・江戸幕府直轄地の3領分割支配になりました。

商業の中心が郊外に移り、古い建造物が残る町並みに

2016年(平成28年)の玉島市街地 港橋周辺図(港橋北詰の案内板より)
2016年(平成28年)の玉島市街地 港橋周辺図(港橋北詰の案内板より)

明治時代以降も玉島は、岡山県内で指折りの経済の中心地としてにぎわいました。
金融機関や官公庁の主要な出先機関も置かれ、拠点都市にもなります。

その後、1970年代半ばになると、自動車中心社会となり、商業はしだいに郊外へ移っていきました。

しかし玉島市街地には古い建造物が多く、港町の繁栄を感じる町並みが残されています。1995年(平成7年)に玉島の町並みは、岡山県町並み保存地区に指定されました。

さらに2017年(平成29年)に玉島の町並みが、日本遺産一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」の構成文化財に。

2018年(平成30年)には、日本遺産荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財の一つになりました。

現在倉敷市は、玉島の歴史的景観を後世に残せるよう、建築物の新築・増築などに対して経費補助や技術支援をしています。

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アサノ

フリーランスとして活動するプロの取材・インタビューライター、フォトライター。地域の文化・地理・歴史・食べ物などに精通。企業の社員インタビューや事例紹介、採用コンテンツも。

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