「倉敷美観地区の歴史を学ぼう」は2025年度に任意団体「このまち時間旅行倶楽部」が開催した、倉敷美観地区に関する勉強会において、倉敷市歴史資料整備室 山本太郎 氏・倉敷市教育委員会 藤原憲芳 氏による報告内容とスライド資料をもとに、倶楽部メンバーの議論を踏まえて、一般社団法人はれとこ 代表理事 戸井健吾がまとめたものです。
この記事では「第2部:江戸時代」について、紹介します。
「第1部:氷河期〜16世紀」は以下の記事を確認してください。
記載されている内容は、2026年8月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
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江戸時代(初期)
16世紀までの倉敷は港であるため、農地はほとんどなかったようです。
その後江戸時代に入り、農業が盛んになり美観地区よりも南のエリアが干拓により海が陸地化し、倉敷は物資の集散地として発展するようになりました。
この頃には「倉敷」という地名も地元の文書に記録されています。

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」の後、それまで倉敷を含む備中の大半を支配していた毛利・宇喜多氏は、備中から追い払われます。そして、関ヶ原の戦いに勝利し覇権を確立した徳川家康は、備中など11カ国(畿内を中心とする)に「国奉行」を置きました。
「国奉行」は江戸時代に豊臣家蔵入地を徳川家康が管理するために置いた役職で、関ヶ原の戦い直後は豊臣家もまだあり、江戸幕府の体制も確立されていないため、このような形になったようです。

備中国奉行として派遣されたのは小堀正次(こぼり まさつぐ)で、その後1604年に正次の急死により小堀政一(こぼり まさかず)が家督を継ぎ、備中松山城を守りました。備中国奉行の重要拠点であったのは、城のある松山と船を有する港である倉敷です。
なお、小堀政一は一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られており、桂離宮をはじめとする日本庭園の作庭家・茶人としても歴史に名を残しています。

(引用:『新修倉敷市史』第3巻38ページ 山本太郎氏執筆部分)
その後、備中国の松山藩領として池田長幸・長常の時代が続きますが、1641年に池田長常が死去し無嗣断絶(跡継ぎがいないまま当主が死去し、家が取り潰しになること)となった結果、倉敷村は幕府の直轄領となります。

幕府直轄領へ
1641年12月から、米倉平大夫(よねくら へいだゆう)と小川藤左衛門(おがわ とうざえもん)が代官として派遣され、倉敷村は幕府直轄の代官の支配する町になります。いわゆる「天領のまち倉敷」はここから始まりました。
天領という言葉は、現代では特別なもののような紹介をされることも多いですが、このような経緯で幕府の直轄領となっているため、選ばれたわけではありません。天領という言葉も、幕府直轄領の俗称です。
幕府の本音としては直轄領を増やしたいという狙いはあったと思われますが、大名もいる中で強引なことはできないため、タイミングが合えばこのような形で直轄領を増やしていたそうです。
このため、当時の民衆の感覚としては、「選ばれた」「天領はすごい」といった感覚は皆無だったと思われます。天領が特別なもののように語られたのは、観光的なキーワードと結びつくようになった昭和以降の話です。
しかし、大名が支配する「城下町」と比較して、自由な空気はあったのではないかと想像されます。支配身分である武士や武士が住む「武家屋敷」がなく、武士に奉公する町ではなかったためです。
倉敷村の運営

幕府直轄領となった倉敷村は、村役人を中心とした運営になります。
倉敷代官は武士ですが、現代で言えば「東京から派遣された官僚」のような存在です。地元有力者に幕府領の支配を分担させる形をとらざるを得なかったと思われます。
江戸時代のはじめから村の運営を担ったのは、「古禄」と呼ばれた旧家です。古禄は江戸時代初期には多くの貸地・貸家を抱え、問屋や醸造業を営む有力商人となっていました。
商人が村役人として倉敷村を運営したと聞くと、江戸時代の身分制度「士農工商」を連想し疑問を持つ方もいるでしょう。確かに「士農工商」という言説は存在しますが、実態はそれほど単純ではありません。
現在では、支配身分(武士・天皇家・公家・上層の僧侶・神職)と被支配身分(百姓・職人・家持町人)として捉える見解があり、武士の主従制、百姓の村、町人の町、職人の仲間など団体や集団ごとに組織され、個人は家や集団を通じて身分に位置づけられたそうです。
例えば城下町に住む人は町人、村に住む人は百姓となります。そして、百姓でも農業をする人・商売をする人がいるなどさまざまです。身分と職業はわけて考える必要があります。
倉敷村は村です。
このため、その構成員は実際の生業にかかわらず身分は百姓であり、倉敷村は「商人・町人の村ではなく、百姓の村」となります。
なお、倉敷村は現在のJR倉敷駅から倉敷市新田(新田中学校)の辺りまでのエリアでしたが、現在の美観地区周辺は「水夫屋敷(かこやしき)」と呼ばれていました。水夫屋敷だけでみれば、ほぼ商売をする人ばかりだったそうです。

江戸時代の生活

(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
江戸時代の倉敷村は、現在の倉敷アイビースクエア内に倉敷代官陣屋(1746年完成)があり、現在の美観地区には多くの家が並んでいました。
江戸時代初期は古禄が村運営の中心でしたが、「新禄」と呼ばれる新しく伸びてきた新興商人も登場します。このように、代官など支配者層ではなく、民衆が村運営の中心を担っていたことで、独自の取り組みも行うようになります。
| 古禄 | 小野家 水澤家 井上家 岡家 等 |
| 新禄 | 植田家 大橋家 大原家 原家 小山家 等 |
新禄の登場は、その後「新禄古禄騒動」を招きました。
ついには、配下の百姓も巻き込んだ村方騒動となり、出会ってもお互いに口も聞かないような期間が長く続いたそうです。
村役人を独占していた古禄に対して、文政年間(1818〜30年)に新禄の6人が異を唱え、最終的には江戸訴訟になりました。その結果、初めて村役人が選挙で選ばれるようになりますが、最初は新禄から植田家、古禄は水澤家が庄屋になり、どちらにつくかで村が二分されたそうです。
この村方騒動はかなり激しかったそうで、江戸時代の倉敷村は争いごとも多かったと言えるでしょう。
一方で武士が支配する世の中において、幕府直轄領のため武士の人数が少なく、百姓が村の中心的な役割を担い争いが起こっていたことは、経済的には恵まれていたこともうかがい知れます。
なお、倉敷村庄屋を訴えた6人組をさして「新六」という言葉は使われていましたが、古禄・新禄という言葉は当時使われていたわけではなく、後の時代に名付けられたと思われます。

倉敷義倉(くらしきぎそう)と呼ばれる相互扶助組織は、倉敷村の独自性を象徴する存在です。
倉敷義倉は現在でいう困窮者を救済する福祉制度です。このような制度が、支配者層ではなく民間主導で設立・運営されたことから、当時の倉敷村の民衆の「町に対する想い」をうかがい知ることができます。
江戸時代の倉敷の職業構成


倉敷村の職業は「倉敷村町内小前商売留帳」によると、1772年の倉敷村の小前戸主1838人のうち、農業従事者が893人、農業以外が945人だったそうです。
農業従事者を見ると、百姓はわずかに60人で、小作人が828人におよび、土地所持が一部の人に偏っていたことが伺えます。このため「百姓の身分」だからといって平等ではありませんでした。
土地を持っているか・いないかの差は大きく、持っていない人は借家での小商売や移動販売のような仕事をするしかありませんが、自分の実力でのし上がっていく余地があったのは倉敷の特徴であったのかもしれません。商売でのし上がった新禄の存在は、その象徴と言えるでしょう。
実際、農業以外では多様な商工業が展開されていました。
その中では、魚売134人や綿実買・実買45人が目立ち、魚・綿実の流通の拠点としての特色が浮かび上がっています。問屋10人・仲買6人・宿屋10人・質屋19人の存在は、倉敷が地域の流通・金融センターであることを示しています。また、女性の職種として縫物が多かったそうです。
江戸時代は石高制(田畑・屋敷地などの生産高を玄米の量で表わしたもの)の社会です。農業が主流の時代において、地方の村でありながら多様な職業の人がいたことは、後の時代にも影響を与えたのかもしれません。
「第3部:明治時代〜現代」に続きます。
記事全文は以下の特集ページからも閲覧できます。
このまち時間旅行倶楽部メンバー
- 大原 あかね
株式会社三楽 取締役副会長 - 門利 博子
語らい座大原本邸 館長 - 稲垣 年彦
一級建築士事務所トリムデザイン - 大賀 環子
株式会社日本郷土玩具館 代表取締役 - 秋葉 優一
株式会社クラビズ 代表取締役 - 高石 真梨子
倉敷市地域おこし協力隊 - 戸井 健吾
一般社団法人はれとこ 代表理事
アドバイザー・記事監修
- 山本 太郎 氏
倉敷市総務局総務部総務課 歴史資料整備室主任 - 藤原 憲芳 氏
倉敷市教育委員会 学芸員 - 西村 将典 氏
倉敷市文化産業局参事




































