倉敷には、酒津焼、羽島焼、倉敷ガラス、緞通(だんつう)など「民芸品」と呼ばれる暮らしの道具が数多く存在します。
私は2023年12月に関東から倉敷へ移住してきたので、県外の友人と倉敷観光をすることが頻繁(ひんぱん)にあります。友人たちに倉敷で訪れてみたい場所を聞くと、やはり「民藝の歴史を学べる場所」や「民芸品を実際に手に取れる場所」を希望されることが多いです。
なぜ、倉敷にはこれほどまでに民芸品が数多く生まれ、それらを生活に取り入れる文化が普及したのでしょうか。
民藝運動の時代から遡(さかのぼ)りながら、倉敷に民藝が根付いた歴史をたどっていきましょう。
大原美術館・倉敷民藝館内は通常、撮影禁止です。今回は特別に撮影許可をいただいています。
記載されている内容は、2025年10月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
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民藝と民芸

「民藝」という言葉は「民衆的工藝」の略で、柳宗悦(やなぎ むねよし)によって作られた造語です。柳は、日常生活で使われるものには、その用途に根ざした美しさ「用の美」があると考え、河井寛次郎(かわい かんじろう)・濱田庄司(はまだ しょうじ)・富本憲吉(とみもと けんきち)らとともに民藝運動を立ち上げました。
彼らは、地産地消の手工芸品であり、市井の人々の普段の生活を支えた品々の価値を認め直す運動をおこし、そうした観点から見出され、また生産の復興が目指された品々が「民藝品」「民芸品」と呼ばれるようになります。
なお、倉敷美観地区にある倉敷民藝館は「民藝」なのに対して、お土産屋さんでは「民芸」と異なる漢字を使用していますが、その違いはあまりないようです。
この記事では、以降「民芸品」と表記します。
倉敷と民藝
大原美術館の設立者としても知られる倉敷出身の実業家・大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)は、地域の工芸品の魅力を多くの人に伝えようと活動していました。
柳宗悦に出会ったことをきっかけに民藝運動を支援し、その結果、大原美術館 工芸・東洋館に、民藝運動に携わった人たちの作品が展示されることになります。
大原家と民藝の歴史について、公益財団法人大原芸術財団 学芸員の長谷川祐里(はせがわ ゆり)さんに話を聞きました。

民藝運動の支持者でもある作家たちの作品を収集・展示する場
大原美術館の工芸・東洋館には、民藝運動を提唱した作家の作品が展示されていると聞きました
長谷川(敬称略)
大原美術館設立者の大原孫三郎は、民藝運動の支援と並行して、個々の作り手への支援に力を入れていました。
民藝運動の支持者のなかには、作家として活動している人も多くいました。工芸・東洋館のうち工芸館部分(以下、「工芸館」と記載)では、民藝運動を支えた6人の作家による工芸品が部屋ごとに展示されています。
作家名 | ジャンル |
---|---|
濱田庄司(はまだ しょうじ) | 陶器 |
バーナード・リーチ | 陶器 |
富本憲吉(とみもと けんきち) | 陶磁器 |
河井寛次郎(かわい かんじろう) | 陶器 |
棟方志功(むなかた しこう) | 木版画 |
芹沢銈介(せりざわ けいすけ) | 染色 |
倉敷には、倉敷民藝館もありますよね。大原美術館の工芸館と倉敷民藝館、それぞれの役割を教えてください。
長谷川
大原美術館の工芸館は1961年に、倉敷民藝館は1948年に開館しています。つまり、倉敷民藝館のほうが先に開館しました。
倉敷民藝館では、日本民藝館と同様に日本だけでなく世界各地から集められた民芸品を展示しています。
実際の生活で使われていた、あるいは今も使われている「日用品」を展示することが、倉敷民藝館の役割の一つです。

一方で、大原美術館の工芸館には民芸品を展示していません。
こちらは、民藝運動を支持した作家たちの作品を展示する場となっています。
工芸館に作品を展示している作家たちの作品は、民芸品ではなく美術品という扱いです。もちろん、民芸品から影響やインスピレーションは受けていますが、それらは日用品ではなく作品です。
作家たち自身も、自分たちが作ったものは作品であって民芸品とは異なるという認識をもっていたのだろうと思います。
このように展示作品の棲(す)み分けをしながら、時代を重ねています。
大原孫三郎が、民藝運動を支援
大原美術館と民藝運動の関係について、教えてください
長谷川
倉敷は民藝運動が提唱される以前から、酒津焼のような地域の焼き物を復興したいという思いのある街でした。
そのようなこともあり、大原孫三郎やその息子の總一郎(そういちろう)は民藝運動の支援をしていました。
1936年、日本で初めての民藝館である東京駒場の「日本民藝館」が設立される際にも、孫三郎は建設費を支援しました。
孫三郎が民藝運動を支援するきっかけとなった出来事はありますか
長谷川
いつから、ということははっきりしませんが、少なくとも1930年頃までには河井寛次郎とは知り合っていたようで、それ以降、柳宗悦をはじめ、民藝運動の支持者たちと徐々に親交を深めていったようです。
そのなかでも、濱田庄司との間には、大原家の主治医である三橋玉見(みはし たまみ)が所有していた土瓶の美しさに孫三郎が感動し、作品を求めたというエピソードも残っています。工芸館に展示されている作家たちとは、単に交友関係を持つだけでなく、作品を購入したり、倉敷で展覧会を開催したり、制作の支援などもおこないました。
まず作家たちの作品に惹かれ、そこから民藝運動の思想にも共感し、その支援へとつながっていったのでしょう。
今後も、工芸の現代作家の発掘や支援をしていきたい
現在も、大原美術館では工芸作家の支援をしていますか?
また、今後も新たな工芸作家の作品を展示する予定はありますか?
長谷川
もちろんあります。
近年では、2004年に有隣荘にて陶芸作家の田嶋悦子(たしま えつこ)さんの作品展を、2013年には工芸・東洋館にて染色家の八幡はるみ(やはた はるみ)さんの作品展を実施しました。
現在お知らせできる企画はありませんが、今後も大原芸術財団がおこなう作家共同交流事業において、工芸作家とともに展示を作っていく機会はあると思います。
大原美術館 工芸館の見どころを教えてください
長谷川
棟方志功や芹沢銈介の作品は紙や布で作られているため、作品保護の観点からおよそ3か月ごとに展示替えをおこなっていますが、それ以外の作品はほとんど展示替えがありません。そのため、いつ訪れても同じ作品をじっくり鑑賞できます。
また、工芸館はもともと蔵だったスペースです。
外装・内装・展示、蔵の配置すべてを、染色工芸家であり總一郎と親交の深かった芹沢銈介が、細かくデザインしています。
朝鮮張りの床の響きや、エスカレーターに着想を得た階段の手すりなど、作品だけでなく建物自体もぜひお楽しみください。
