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建築物としての「有隣荘(大原家旧別邸)」~ 和洋中の三つの文化が合わさった、倉敷初の住居兼迎賓館(倉敷建築紀行 Vol.7)

建築物としての「有隣荘(大原家旧別邸)」~ 和洋中の三つの文化が合わさった、倉敷初の住居兼迎賓館(倉敷建築紀行 Vol.7)

観とこ / 2023.03.04

倉敷が誇る文化施設である大原美術館。その真正面に、緑色の瓦屋根が特徴的な建物があります。

建物の名前は「有隣荘(ゆうりんそう)」。

大原美術館を設立した大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)が、病弱だった壽恵子(すえこ)夫人のために建設し、1928年(昭和3年)に完成した「大原家の別邸」です。

つまり「私邸」にあたるわけですが有隣荘の建設には「26万円」と、のちに建設された大原美術館 本館5棟分の費用がかかったそうです

実は有隣荘には、当時倉敷にはなかった「迎賓館」としての機能が設けられています。さらに、

「和洋中」3つの文化が合わさった特徴的な建物

となっています。

しかし、これほどのお金と情熱をかけて建設したにもかかわらず、大原孫三郎が実際に住居として利用したのはわずか半年ほど

その後、建設当初コンセプトのひとつである迎賓館として使われていたため、長らく一般公開されていませんでしたが、近年は年に数回の特別公開のみ一般公開される空間となりました。

この記事では、建築物としての「有隣荘」に着目して、この建物の研究者であるノートルダム清心女子大学名誉教授の上田恭嗣(うえだ やすつぐ)氏に同行させてもらい紹介します。

記事内の歴史的な事実・見解は、上田恭嗣 氏の研究成果に基づいて記載しています。

有隣荘内は通常、撮影禁止です。今回は特別に撮影許可をいただいています。

記載されている内容は、2023年3月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。

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有隣荘とは

有隣荘の門

有隣荘は、1928年(昭和3年)に完成した「大原家の旧別邸」です。

本宅は現在の「語らい座 大原本邸」で、当時から歴史的にも由緒ある建物でしたが、どこからでも出入りでき、家族だけの生活空間を持ちづらい状況だったそうです。

そこで、大原孫三郎は壽恵子夫人を気づかい、家族だけの生活ができる住まいとして、「洋式住宅」の建築を依頼します

そのとき依頼されたのは、後に大原美術館 本館を手がけた「薬師寺主計(やくしじ かずえ)」です。

「薬師寺は1926年(大正15年)に皇太子(後の昭和天皇)が倉敷を訪れたことなど、今後も想定される天皇家・宮家などの来訪時に、倉敷には貴賓を迎え入れる施設がないことを進言したのだろう」と、上田恭嗣 氏は語ります。

これを受けて、当初の家庭的な洋式住宅から、広い洋間の娯楽室と大規模な日本建築様式を併せ持つ「本格的な邸宅」へ大きく変わりました。これが現在の有隣荘です。

有隣荘は現在、大原美術館が所有しています。

ふだんは外観のみが見学可能で、例年春と秋に開催される特別公開など、特別な機会を除き、内部は一般公開されていません。

緑色・オレンジにも見える屋根瓦

外観としてまず目につくのは、緑やオレンジに見える屋根瓦でしょう。この色から有隣荘は通称「緑御殿」とも呼ばれています

この屋根瓦は有隣荘のために、当時瓦の産地であった泉州谷川の窯で特別注文したものだそうです。

瓦といえば日本建築を想像しがちですが、日本建築の瓦はほぼ灰色や黒なので、このように鮮やかな色は珍しいでしょう。

実は、画家の児島虎次郎(こじま とらじろう)が、中国で見た孔子廟などに憧れを持っていたことから採用された、という説があります。

有隣荘の沿革を簡単にまとめます。

年月内容
1925(大正14)年2月頃大原孫三郎が薬師寺主計に洋式住宅の設計を依頼
1926(大正15)年5月22日皇太子(のちの昭和天皇)が倉敷来訪
6月2日設計変更を経て地鎮祭
1928(昭和3)年4月有隣荘完成
6月5日大原孫三郎夫妻が入居
1929(昭和4)年3月8日児島虎次郎が他界
1930(昭和5)年4月25日壽恵子夫人が他界
11月陸軍特別大演習が岡山・福山で開催され、宮家が倉敷視察時の休憩所として使われる
1935(昭和10)年有隣荘が大原美術館の所有となる
1943(昭和18)年1月18日大原孫三郎が他界
1947(昭和22)年12月昭和天皇が2泊
1997(平成9)年以降大原美術館が主催となり、展覧会と合わせて特別公開するようになる
有隣荘の沿革

有隣荘の設計は建築家「薬師寺主計」

薬師寺主計
薬師寺主計
写真:上田恭嗣氏 蔵

有隣荘の建築設計は、岡山県総社市出身の建築家「薬師寺主計(やくしじ かずえ)」がおこないました。

大原美術館 本館、第一合同銀行倉敷支店(中国銀行倉敷本町出張所、現在の「新児島館(仮称)」)も、薬師寺主計の設計です。

1909年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、陸軍省の技師として活躍していましたが、大原孫三郎の依頼に従う形で依願退職し、倉敷絹織(現在の株式会社クラレ)の取締役に就任します。

薬師寺主計は建築家であると同時に、設計・見積・工程管理・予算管理など優れたマネージメント力を有していたそうです。

それは大原美術館 本館をわずか「6か月」程度で完成させたことにも表れています。

大原孫三郎・児島虎次郎とのコラボレーションと繰り返された設計変更

有隣荘の和風建築部分

しかし、有隣荘の建設にあたって、薬師寺主計はかなり苦労をしたようです。

大原美術館 本館、第一合同銀行倉敷支店などのように、一般公開する施設ではなく「私邸」であることから、施主である大原孫三郎の希望をできる限り叶えたことが1つ目の理由。

もう1つの理由は、薬師寺主計は西洋建築の手法には長けていましたが、天皇家を迎えるにふさわしい日本建築を手がけたことがなかったからだろうと、上田恭嗣 氏は語ってくれました。

このため、当時の日本建築様式の第一人者かつ第一線級の研究者であり、薬師寺の恩師でもある「伊東忠太(いとう ちゅうた)」に和の部分の基本設計を依頼しています。

このようにして和と洋の基本部分ができあがっていきますが、そこに中国的な意匠を取り込むよう大原孫三郎に進言したのが児島虎次郎だといわれています

中国的な意匠を取り入れた屋根瓦
中国的な意匠を取り入れた屋根瓦

建築家として、薬師寺は専門外の人物から口をはさまれて設計を変更することはプライドに傷がつく出来事だったはずです。

しかし当時、児島虎次郎は「明治天皇の威徳を偲ぶ絵画制作者」に推挙され制作をおこなっており、天皇の建築技師であった薬師寺はその価値と重圧を誰よりも理解し、一目置いて認めていたのでしょう。

そして、迎賓館としてより良いものを作ろうという思いが一致していたから、設計変更を受け入れたようです。

結果として、有隣荘は大原孫三郎・児島虎次郎とのコラボレーションでできあがった作品ともいえるかもしれません。

和洋折衷ではなく「和洋中の意匠を取り入れた建築物」

左:平屋建ての洋風建築 右:二階建ての和風建築
左:平屋建ての洋風建築
右:二階建ての和風建築

有隣荘は「和洋折衷の建築物」とよく表現されます。その理由は建物の構成にあるとのことです。

  • 平屋建ての洋風建築
  • 二階建ての和風建築

このような和風建築と洋風建築を併設する邸宅形式は、明治中期頃から東京の上流社会で広がっており、西洋式の生活形態をステータスの一つとして表現する手法でもありました。

そのような時代背景があるなか、有隣荘では瓦などの外観と、食堂のデザインは中国風となっています。つまり、正確には「和洋中の意匠を取り入れた建築物」となります。

中国的な意匠を取り入れた屋根瓦
中国的な意匠を取り入れた食堂

天皇家・宮家など貴賓を迎える「迎賓館を兼ねた住宅」

「大原家の別邸」として計画された当初(別の敷地)は、あくまでも「洋式住宅」だったそうです。

これが現在の姿になった理由は、当時倉敷にはなかった天皇家・宮家など貴賓を迎える「迎賓館」としての機能を持たせたためとのことです。

居間(娯楽室)は迎賓館機能を体現したような空間でしょう。

居間(娯楽室)

前述の通り中国風のデザインを取り入れた結果、当初の設計と変わった部分はあるものの、当時流行していたアール・デコ様式が取り入れられています

アール・デコとは
1920年代におこった装飾様式。

装飾的なものよりも直線的で合理性・機能性を重視したデザイン。

アール・デコ様式の植木室
アール・デコ様式を取り入れた植木室
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有隣荘の外観・内部をチェック

それでは、建物に着目して有隣荘を見てみましょう。

外観

有隣荘外観
有隣荘外観
有隣荘の門
有隣荘の門
玄関は当初外開きの扉となっていたが、両引き分戸に変更された。洋風建築の玄関としては引き戸は珍しい
玄関は当初外開きの扉となっていたが、両引き分戸に変更された
洋風建築の玄関としては引き戸は珍しい

アール・デコ様式の洋室

玄関
玄関
照明は光ると模様が天井に浮かび上がる
照明は光ると模様が天井に浮かび上がる
アール・デコ様式の玄関家具
アール・デコ様式の玄関家具
洋室廊下
洋室廊下
照明が上質な空間を演出している
照明が上質な空間を演出している

居間(娯楽室)

居間(娯楽室)
居間(娯楽室)
庭園のある南側を望む
庭園のある南側を望む
北側を望む
北側を望む
暖炉
暖炉
暖炉の上部には児島虎次郎が彫り込んだと思われる線画がある
暖炉の上部には奇妙な多国籍の民族が描かれた線画がみられる
窓からの景色も計算された感じがする
窓からの景色も計算された感じがする
床板は建築当時のまま
床板は建築当時のまま
アール・デコ様式の植木室
アール・デコ様式の植木室
アール・デコ様式の家具
アール・デコ様式による照明器具と植物吊り下げ金物

中国風の食堂

中国的な意匠を取り入れた食堂
中国的な意匠を取り入れた食堂
窓枠の作りが昔の「ラーメン屋」っぽい
窓枠の作りが「中国の家屋」をほうふつさせる
壁にも模様がある
壁の上部に雷紋の模様がある
暖炉の模様も中国風
暖炉の模様も中国風
食堂から台所を望む
食堂から台所を望む

台所は特別公開時も立ち入り禁止です

日本建築部分(1階)

有隣荘の和風建築部分(1階)
有隣荘の和風建築部分(1階)
見事な日本建築
見事な日本建築
開放的な窓
開放的な窓
和室から望む庭
和室から望む庭
この庭は大原孫三郎の思いで作り変えられた
大原美術館 本館も見える
大原美術館 本館も見える

日本建築部分(2階)

階段を上ると和風建築部分の2階に上がれる
階段を上ると和風建築部分の2階に
階段の途中にある窓からは、屋根瓦を間近で見られる
階段の途中にある窓からは、屋根瓦を間近で見られる
南側を望む
有隣荘2階
2階からも大原美術館 本館が見える
2階からも大原美術館 本館が見える
北側を望む
北側を望む

建物を守る不思議な動物たち

有隣荘にはよく見ると、さまざまな動物がいます。

これは、有隣荘の敷地選定にあたって家相を重んじて、当初の予定地から現在の場所に変更になった経緯があり、配慮したものと思われるとのことです。

玄関先の鬼門の位置にある魔除けの動物
玄関先の鬼門の位置にある魔除けの動物(狛犬)
屋根の四隅には狛犬が鎮座している
屋根の四隅には狛犬が鎮座している
和風建築部分1階の主人室にある書印欄間の透かし彫りには龍
和風建築部分1階の主人室にある書院欄間の透かし彫りには龍
和室襖(ふすま)の引き手にも龍
和室襖(ふすま)の引き手にも龍

裏庭の特異な茶室

裏庭の狭少茶室。有隣荘の壁に一体化する形で、建設後に増築された
裏庭にある一畳台目中板向切の茶室
有隣荘の壁に一体化する形で、建設後に増築された

おわりに

有隣荘の玄関

筆者は倉敷で生まれ、倉敷で育ちましたが有隣荘に初めて入ったのは2018年です。

ずっと「入れない場所」と思い込んでいました。

しかし建設の経緯を知ると、気軽に足を踏み入れられる場所ではないことが理解できました。

あくまでも私邸であり、プライベートな空間

なんです。

今回の取材に当たり、一般公開されていない、台所・お風呂・トイレなども見せてもらいました。そこは、華やかな洋室、広々した和室とは違った「生活の匂いを感じる空間」でした

莫大なお金をかけて建設した有隣荘が、私邸として使われた期間はわずか半年程度です。

有隣荘の和風建築部分(1階)

1928年(昭和3年)6月5日に、大原孫三郎夫妻は入居しますが、その年の8月に壽恵子夫人は胆石と診断され、12月に倉敷中央病院に入院。

翌年2月末には黄疸を発症し、6月に京都帝大附属病院へ入院後、一時退院がかないますが、1930年(昭和5年)4月25日に亡くなります。

1929(昭和4)年には、盟友といえる児島虎次郎も亡くなりました。

すでに生活拠点を関西に移していた孫三郎は、その後倉敷に戻っても、住み慣れた本宅(現在の「語らい座 大原本邸」)で過ごすことが多かったそうです

有隣荘は結果として、孫三郎にとって「大切な人を思い出してしまうつらい場所」になってしまったのかもしれません。

そして、迎賓館としての機能も、世の中が戦争に向かう中で使われることがなく、大原孫三郎の思いが叶うのは、孫三郎亡き後の1947年(昭和22年)12月でした(昭和天皇が2泊している)

現在の倉敷美観地区を、実業家大原孫三郎と建築家薬師寺主計、そして画家児島虎次郎抜きで語ることはできないでしょう。

有隣荘はその三人の思いが詰まった唯一の作品ともいえます。三人の思いを想像しながら建物をゆっくり眺めてください。

普段の有隣荘
普段の有隣荘

普段は外観しか見られませんが、例年4月末からのゴールデンウィーク期間、10月には一般公開されますし、時々それ以外の時期でも公開されます。

機会があれば是非「有隣荘の中」に足を運んでみてください。

取材協力
  • 記事監修:ノートルダム清心女子大学名誉教授 上田恭嗣
  • 参考書籍:上田恭嗣「天皇に選ばれた建築家 薬師寺主計」、2016年
  • 撮影:佐々木敏行
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戸井健吾

戸井健吾

1979年生まれ、倉敷市在住
2児の父親

システムエンジニアの仕事に携わりながら、ブログ・イベント運営など様々な仕事を行っています。

現在は当メディアを運営する一般社団法人はれとこの代表理事を務めつつ、フリーランスとしても活動中。

自分自身が美観地区を楽しみながら、「行ってみたい」と思える情報を発信することをモットーにしています。

信頼できるWEBメディアになれるように、メンバーが一丸となって運営しています。

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