真備町の地名の由来となった「吉備真備(きびのまきび)」。
名前は知っていても、何をした人なのか、真備とどのようなゆかりがあったのかも私はよく知りません。
しかし、2026年3月の備中倉敷学で、真備に面白く奥深い歴史や遺跡があり、多くの出土品が見つかっている遺跡や、吉備真備がなぜ命がけで唐に渡ったのかなど興味深い話を聞けました。
この記事では、真備に数々ある重要な遺跡や吉備真備の話など、講演内容を紹介します。
記載されている内容は、2026年4月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
目次
「備中倉敷学」とは

備中倉敷学は、備中・倉敷地方の歴史と文化をテーマに毎月第2木曜日に開催されている講演会です。2025年で20周年を迎え、今回の講演会は201回になります。
事前登録不要・参加無料で誰でも気軽に参加できるのが魅力です。詳しい日程や講演内容は公式ホームページを確認してください。
会場は倉敷美観地区にある倉敷公民館です。白壁が印象的な建物で大原美術館や児島虎次郎記念館のそばにあります。会場には多くの人が集まり、関心の高さを感じました。
テーマは「真備の遺跡と吉備真備」について

今回の講師は、倉敷市文化財保護課・日本遺産推進室の藤原憲芳(ふじわら のりよし)さんです。
古墳とは/古代吉備とは

古代の「吉備国」とは現在の岡山県(備前・備中・美作)と広島県東部(備後)を合わせた広大な地域のことをいいます。
温暖な瀬戸内海に面し、三大河川が流れ、広い平野が広がる吉備は稲作に最適で、古代においてかなりの力を持っていたと考えられています。
古墳とは3世紀から7世紀にかけて造られた古代の実力者のお墓のことです。
形と大きさによって格式があり、たとえば前方後円墳は格式が高い古墳とされています。同じように土を盛り上げた王のお墓でも、弥生時代に造られたものは「古墳」とは呼ばず「弥生墳丘墓」と呼びます。倉敷の楯築遺跡は弥生墳丘墓です。
吉備の繁栄を示す代表例が大きな古墳の存在です。
古代吉備には墳丘の長さが全国4位の造山(つくりやま)古墳、全国10位の作山(つくりやま)古墳があり、この2基以外の全国上位の古墳は天皇陵として宮内庁が管理しています。
このことからも大和に次ぐ大きな力が古代吉備にあったことがわかります。
吉備の反乱と、大和王権の拡大

しかし、5世紀後半吉備は大和王権に三度の反乱を起こし、すべて敗れます。
1回目は闘鶏(とうけい)はがきっかけです。
吉備の豪族が大和と吉備に見立てた鶏を戦わせ、大和側が勝つと、怒って鶏の首をはねたことが反逆とみなされ討伐されました。
2回目は雄略天皇が家臣の妻を気に入り、差し出すよう要求したことがきっかけです。断った家臣を朝鮮半島に派兵して、留守中に妻を奪ったことで反乱を起こしましたが抑えられました。
3回目はその奪われた妻と雄略天皇の間に生まれた息子が、雄略天皇の死後に王位を狙って反乱を起こしましたが失敗に終わったのです。
こうして吉備は力を失い、以後巨大古墳が造られなくなります。
4〜5世紀には数百m規模の巨大古墳がありましたが、6世紀になるとその姿は消えていきます。
真備町にある注目の遺跡

こうして勢力が衰えてきた吉備の豪族・下道氏(しもつみつし)の一族が移り住んだとされる真備町周辺には、古代の遺跡が集まっています。
竪穴式の石室がある黒宮大塚(くろみやおおつか)弥生墳丘墓、山頂から真備の平野を一望できる天狗山(てんぐやま)古墳、未盗掘で鎧・武器・馬具がそのまま出土した勝負砂(しょうぶざ)古墳など、全国レベルの遺跡が小さな町に点在しています。
なかでも注目は箭田大塚(やたおおつか)古墳です。
石室の全長19.1mは奈良の石舞台古墳とほぼ同じか、それ以上ともいわれる規模で、岡山県三大巨石墳の一つです。出土した刀の柄飾りには金メッキが施されており、古代に地方の豪族がこれほどの技術をもっていたことに驚かされます。
また、古墳時代が終わると権力者たちは寺を建てるようになりました。真備には飛鳥時代初期の寺の跡が3か所もあります。海から来る船に向かって見えるような位置に寺を建てています。
寺は権力のアピールのほか、財産を守るための隠れ蓑としても利用していたのではないかと推測されているそうです。
吉備真備はなぜ命がけで唐へ渡ったのか

こうした歴史の流れを踏まえたうえで、吉備真備の生きた道のりを聞きました。
695年生まれの吉備真備は下道氏の末裔です。
父親は奈良の都で役人をしていましたが、貴族がひしめく都においては大豪族ではありません。かつて吉備を支配した一族の誇りと都での現実のギャップがあり、父親から「あとを継いでも、これ以上の出世は望みが薄い」と伝えられた吉備真備は、命がけの唐への留学を決意したのではないかと推測されています。
約19年間、唐の都・長安で儒教・算術・音楽・兵法など幅広い学問を吸収して帰国した吉備真備。後に天皇となる皇太子の教育係として信頼を勝ち取り、2度目の渡唐では鑑真和上(がんじんわじょう・がんじんおしょう)を日本に連れ帰ることにも関わります。
政敵・藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)に大宰府へ左遷されるなど波乱もありましたが、最終的には右大臣・左大臣に次ぐナンバー2の地位にまでのぼり詰めました。地方豪族の出身がここまで出世した背景には、唐で身につけた学問の力があったと考えられています。
訪れたくなる真備の遺跡

講演では楯築(たてつき)遺跡や邪馬台国についてなどの話も聞きました。吉備から始まる日本の歴史は興味深く、倉敷・真備の地にこれほど面白く豊かな歴史があることに驚いています。
講演の後は、真備の遺跡を自分の足で歩いてみたくなりました。また、今回聞いた吉備真備の話を頭に入れて訪れれば、きっとまた違った景色が見えてくるでしょう。
毎月第2木曜日に開催される備中倉敷学は無料で申し込みも不要です。地域の歴史や文化を学んでみませんか。
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備中倉敷学 第201回「真備の遺跡と吉備真備〜吉備から始まる日本の歴史〜」のデータ

| 名前 | 備中倉敷学 第201回「真備の遺跡と吉備真備〜吉備から始まる日本の歴史〜」 |
|---|---|
| 開催日 | 2026年3月12日(木) 午後2時~午後3時30分 |
| 場所 | 倉敷公民館 |
| 参加費用(税込) | 無料 |
| ホームページ | 備中倉敷学 |




















































