2018年7月、連日にわたり降り続いた大雨による河川の氾濫で濁流に飲み込まれた真備町。
町の至るところに積み上がった災害ゴミは消え去ったものの、水害から約5年が経過した現在でも、真備町は災害当時と比較して約10%も人口が減少した状況にあるといわれています。
物理的な被害からの復旧も大切ですが、精神的な復興のためには、住民たちが安心して、楽しく生活できるまちづくりが必要とされているのかもしれません。
真備町の真の復興を目指して、長期的な視点でまちづくりに邁進(まいしん)している人がいます。
木工家具の製造販売事業をおこなう株式会社ホリグチの代表取締役 堀口真伍(ほりぐち しんご)さんです。
真備町の関係人口を増やすために、観光地や史跡、被災した商店を巡るサイクリングコースの整備や、SNS(ソーシャルネットワーキングサイト)を通じて真備町の現状を発信する「真備でなんしょん」などの企画に、堀口さんは取り組んできました。
堀口さんがどのような経緯でこれらの企画を発案したのか、そして、どのような想いで真備町のまちづくりに取り組んでいるかを紹介します。
記載されている内容は、2023年4月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。
目次
被災地真備町とまちづくり
水害から約5年が経過した現在でも、真備町の人口は約10%減少した状態にあり、いまだに元通りの生活に戻れない人もいるそうです。
真備町の関係人口を増やすために、長期的な視点でまちづくりに取り組む堀口さんについて紹介します。
真備町と平成30年7月豪雨
岡山県に住む人にとっては忘れられない災害となった平成30年7月豪雨。
2018年(平成30年)7月初旬、西日本一帯に降り続いた大雨による河川の氾濫で、倉敷市真備町は甚大な被害を受けました。
真備町は、平成30年7月豪雨においてもっとも被害の大きかった地域です。
小田川と支流の高馬川などの堤防が同時に決壊し、真備町の広範囲が濁流に飲み込まれました。
浸水の深さは最大5mを超え、住宅全半壊およそ8,300棟、床上・床下浸水およそ7,000棟、死者およそ50人という被害状況は、平成最悪の水害といわれています。
被災から約5年が経過した2023年時点の真備町からは、道路の端に積み上がった災害ゴミは消え去り、公共施設や飲食店などの商店も再開。
町のようすからは、水害前の姿に戻りつつあることが感じ取れるでしょう。
真備町のまちづくりと堀口真伍さん
堀口真伍さんは、木工家具を製造、販売する株式会社ホリグチの代表取締役です。
生まれも育ちも真備町である堀口さんは、祖父が創業した会社を受け継ぎ、真備町で事業を営んできました。
平成30年7月豪雨の水害直後は、岡山県内の事業者や岡山県外から駆け付けた仲間とともに災害対策本部を立ち上げ、被災した事業所に積み上がった災害ゴミの搬出作業を実施。
およそ1か月で、延べ680人が参加し、仲間が所有する重機やトラックを活用しながら、131件の事業所支援をおこないました。
町中にあふれた災害ゴミが姿を消し、商店などの事業所が再開しはじめたころからは、仲間とともに真備町のまちづくりについて考えるようになります。
その一つとして、真備町の関係人口を増やすことを目的に、サイクリングコースの整備を発案。
観光地や文化遺産、被災した事業者の商店を巡るコースを設定するとともに、堀口さんの事業である木工家具の製造を生かした木製のサイクルスタンドの製作に着手しました。
また他にも、真備町の現状をSNSで発信する「真備でなんしょん」という企画にも取り組んでいます。
堀口さんは、真備町のまちづくりを推進しているリーダーのような存在です。
真備町を巡るサイクリングコースとサイクルスタンド
水害による人口減少が顕著(けんちょ)な真備町で、関係人口を増やすための取り組みとして、堀口さんはサイクリングコースの整備を進めています。
ロードバイクで真備町を訪れてもらい、観光地だけでなく被災した事業者が経営する商店にも立ち寄ってほしいという想いから提案された企画です。
サイクリングコースには、真備町箭田地区で建設が進んでいる建築家 隈研吾(くま けんご)さんが設計した復興防災公園(仮称)や、箭田大塚古墳などの史跡があります。
真備町のサイクリングコースは、倉敷市のホームページから見られるので確認してみましょう。
また、堀口さんは、木工家具メーカー株式会社ホリグチの特徴を生かし、真備町にある被災した事業者に向けてサイクルスタンドを製作してきました。
部材としてヒノキなどが使用されており、フレーム部分には寄贈先のロゴがレーザーにより刻印されています。
これまでに、美容室accogliente(アコリエンテ)、パン屋pain porte(パンポルト)、うどん屋さるやなど、真備町を中心に17か所の事業者に寄贈してきました。
「真備でなんしょん」とは?
真備でなんしょんは、FacebookやInstagramなどのSNSに「真備でなんしょん」と書かれた木製のプレートとともに撮影した写真を投稿することで、真備町の現状を発信する取り組みです。
被災後の凄惨(せいさん)な状況から復興に向けて、少しずつ元に戻りつつある真備町のようすを、当時、復興支援のために全国から駆け付けてくれたボランティアの人たちへ発信したいという想いが込められています。
水害直後の真備町では、濁流によって運ばれてきた災害ゴミが道路のかたわらに積み上り、また家屋や商店の内部も瓦礫(がれき)で埋め尽くされていました。
膨大な量の災害ゴミを取り除くために、たくさんのボランティアの人たちが、もっとも暑い季節に、汗まみれ、泥まみれになりながら作業していたのです。
水害による凄惨な光景を目の当たりにして、真備町の現状が気になっている人もいるでしょう。
元気になった真備町を多くの人に伝えるための企画が「真備でなんしょん」です。
真備町の復興を長期的な視点で考えてきた堀口さんに、災害当時のようすやまちづくりについて聞いてきました。
堀口さんがどのような想いで真備町の復興にかかわってきたかをインタビューを通じて伝えます。
堀口真伍さんへインタビュー
真備町生まれの真備町育ち、そして真備町で事業を営む堀口さんは、平成30年7月豪雨をどのように捉えているのでしょうか。
堀口さんが、真備町の復興とどのように向き合ってきたかを紹介します。
災害当時の状況について
堀口さんは、災害当時はどのように過ごしていたのでしょうか?
堀口(敬称略)
真備町が冠水する前日の2018年7月6日は、大雨が連日にわたって降り続いていたこともあり、私は消防団として活動していました。
翌日7月7日の朝には堤防が決壊したことが明らかになり、真備町全体に濁流が迫ってくる状況がわかったので、一旦、避難することを決めました。
避難後はどのような状況だったのでしょうか?
堀口
避難した場所は、小高い山の上にある森泉寺(しんせんじ)というお寺。
河川からあふれ出た濁流により真備町は冠水し、住宅に取り残された人たちがいましたが、水上バイクで救出してくれる人が現れました。
そのため、水上バイクによって救出される子どもや高齢者などを補助しながら、一日中、私も救出活動を続けていたんです。
最終的に、200人ぐらいの人を森泉寺に避難させることができました。
そのあとは、どのように災害支援とかかわったのでしょうか?
堀口
幸いなことに株式会社ホリグチの工場は浸水を免れました。
そして、森泉寺で一晩を過ごした翌日7月8日には、岡山県内の事業者の友人たちが工場に水や食料などの支援物資を届けてくれたんです。
その支援物資を無駄にしてはいけないと思い、トラックに積んで、避難していた森泉寺や他の避難所、真備町の事業を営む仲間の元へも届けにいきました。
訪問した先の事業者たちのなかには、被害の状況に会社経営の継続は難しいと弱気になっている人も多くいたんです。
しかし、悲惨な状況のなかでも、岡山県商工会青年部連合会を中心とする仲間が集まり、被災した人たちを支援する拠点を作ろうという話が出てきます。
そこで、浸水により泥だらけだった真備船穂商工会本部を片付けて、水害発生5日後の7月12日に仲間たちが災害対策本部を立ち上げました。
災害対策本部の立ち上げと災害ゴミの搬出作業
災害対策本部を通じて、どのような支援活動を実施したのでしょうか?
堀口
県内の商工事業者を中心とした災害対策本部が立ち上がると同時に、真備町のボランティアセンターも稼働し、一般住宅に向けての支援の体制は整っていました。
そこで、私たちが注力したことは、真備町の事業者に向けた支援です。
私たちの仲間のネットワークを活用して情報を集めると、商店や工場の前に山積みとなっている災害ゴミの処理に困っていることがわかってきました。
そのため、トラックなどの重機を事業者の仲間から借りて、被災した事業所の店舗の前に積み上がった災害ゴミを徹底的に片付けたのです。
災害発生から約1か月間、毎日50人ぐらいの人と一緒に災害ゴミの処理に明け暮れ、被災事業所からの131件の支援依頼に対応しました。
会社経営の継続を諦めていた人たちが、事業を再開する希望を取り戻した姿から、必要とされる支援ができたと感じています。
まちづくりに注力したきっかけはあったのでしょうか?
堀口
災害発生から数か月ぐらいすると、自衛隊や全国からボランティアセンターに集まってくれた人たちのおかげで、町の至るところに山積みにされていた災害ゴミは目立たなくなります。
町がキレイになっていくことはうれしく感じていたものの、災害が理由でやむなく真備町から転居せざるをえない人も多くいたので、戻ってきてもらえるのか不安がありました。
災害ゴミの処理のような短期的な支援が一段落したころ、真備町に人が戻ってこられるように長期的な目線での復興を仲間と一緒に考えるようになります。
その後、まちづくりについて仲間と協議するだけでなく、東日本大震災による被害を受けた宮城県女川町や南三陸町への視察なども実施しました。
サイクリングで真備町を盛り上げる
なぜサイクリングコースの整備をしようと思ったのでしょうか?
堀口
真備町の復興について考えていると、倉敷市が復興防災公園(仮称)を整備するという情報が耳に留まりました。
設計するのは建築家の隈研吾さんで、真備町の憩いと防災の拠点を目指した公園です。
公園が完成するのは数年先とのことでしたが、この復興防災公園(仮称)を核として真備町の関係人口を増やせるのではないかと考え始めました。
そこで出てきたアイディアがサイクリングコースの整備。
人が集う公園を起点として、ゆっくりと真備町を見て回れるようなサイクリングコースを整備すれば、真備町を訪れるきっかけになると思い立ちました。
それまで、本格的なロードバイクに乗ったことはなかったのですが、サイクリングへの理解を深めるために、ママチャリに跨がり国道180号線をたどって真備町から美観地区まで行ってみたんです。
自動車がすぐ横を行き交う国道沿いを自転車で走り抜けるのはとても危険で、怖い思いをしました。
そこで、安全なサイクリングコースを整備することの重要性にも気がつきました。
サイクリングコースは、どのように設定したのでしょうか?
堀口
知識がない状態だったので、まず他地域のサイクリングコースについて調べました。
たとえば、広島県尾道市を起点として、瀬戸内の島々をつなぐ橋梁をコースに取り込んだしまなみ街道や、尾道市から北上し、中国山地を超えて鳥取県松江市までをコースにしたやまなみ街道など、近県にも参考となるサイクリングコースがあります。
調査を通じてわかってきた重要な点は、文化施設や景勝地などを結ぶコースの設定です。
そこで真備町にある観光資源について考えてみました。
日本遺産の構成文化財である箭田大塚古墳は、西日本最大級の石室が見られる場所として歴史的にも重要な史跡です。
また、私立探偵 金田一耕助を主人公とする推理小説を著した横溝正史のゆかりの場所もあります。
そして、隈研吾さんが手がける復興防災公園(仮称)も、人を惹きつける場所となるでしょう。
どういった場所を結ぶかを倉敷市さんと相談しながら、真備町のサイクリングコースが設定されました。
サイクルスタンドを製作した理由は?
堀口
サイクリングコースの整備には、ロードバイクを停めるためのサイクルスタンドも重要です。
真備町でのサイクリングについての考えを巡らせていたころ、のちにサイクルスタンドの企画を一緒に手掛けることになる木谷倍三(きだに ますみ)さんが、偶然にも株式会社ホリグチを訪ねてきました。
木谷さんは、ホリグチが木工製品を製造していることに着目して、木製のサイクルスタンドの製作を提案してきたのです。
サイクルスタンドは、サイクリングコースとして設定した立寄地だけでなく、被災した事業者の商店にも設置することにしました。
ロードバイクで真備町を訪れた観光客が、じっくりと真備町を巡り、被災した事業者の店舗に足を運べるような仕掛けを作りたかったのです。
そこで、サイクルスタンドのフレームには、寄贈先の店舗のロゴをレーザーで刻印しました。
真備の今を伝える「真備でなんしょん」
真備でなんしょんはどのような想いが込められているのでしょうか?
堀口
平成30年7月豪雨で被災した真備町には、道路や建物に押し寄せた災害ゴミを片付けるために、全国からたくさんの人がボランティアに駆けつけてくれました。
7月から9月という1年でもっとも暑い季節に、泥まみれになりながら、災害ゴミの搬出作業に力を貸してくれたボランティアの人たちには心から感謝しています。
当時、ボランティアに参加してくれた人たちのなかには、真備町の現状が気になっている人もいるでしょう。
被災から約5年が経過して、多くの人たちの支援を受けてキレイになった真備町を、お世話になった人たちへ発信したいと思ったんです。
始めたきっかけは、どのようなことだったのでしょうか?
真備でなんしょんの発案者も、サイクルスタンドを提案してくれた木谷さんです。
真備町の各地で、真備でなんしょんというプレートとともに撮影した写真をSNSに上げてもらうことで、真備町の現状を伝える活動をしよう、という提案でした。
ボランティアの人たちのなかには、被災した飲食店から災害ゴミを搬出する作業に関わった人もいます。
過酷なボランティア活動で関わった飲食店が、今は元気に経営しているという現状を知れば、きっと当時の現場を見た人たちは安心できるでしょう。
現在の真備町での生活や景色を発信することで、元気になった真備町を伝えようと考えたのです。
堀口さんが想い描く真備町のまちづくり
今後どのように真備町を発信していきたいですか?
堀口
水害を経験して大変な想いをしてきましたが、復興する過程を経験し、防災意識の高い町になったことは、真備町の強みです。
日本は地理的、気候的な要因から水害の多い国として知られており、昨今の気候変動の影響を受けて、いつどこで水害が発生しても不思議ではない場所に私たちは住んでいます。
また、地震が多いことは周知の事実で、南海トラフ地震などが想定されている状況では、日本に安全な場所がないといっても過言ではありません。
復興に向けて活動してきた私たちの経験を発信することで、日本の他の地域へ貢献できると思っています。
また、真備町は平成30年7月豪雨災害の前後で人口が約10%減少しましたが、この状況は過疎化が先進したと捉えることもできるでしょう。
10%減少という数値は、年々人口減少が進む日本に照らし合わせて考えると、約20年先の人口規模になったといえます。
つまり、ずっと先の将来のものとして考えていた過疎化の状況が、約20年も早く到来してしまったという課題を発掘できる場所なんです。
人口が減ると税収は減少しますし、スマートシティという考えに基づいて、市の中心地に公共施設や商業施設を取りまとめる必要がでてくるかもしれません。
そうなると、真備町の特徴をいかに出していくかが大切になると思います。
私たちの経験や現状を、どのように捉えるか、そして、課題に対する取り組みを発信していくことで、真備町が注目されて関係人口が増えていけばうれしいです。
地域活動を進めるうえで大切にしていることはありますか?
堀口
楽しみながら活動することです。
楽しくないと長続きはしないでしょうし、ときには冗談を交えながら議論することでアイディアが生まれます。
人が集まる場所にするためにも、楽しいという感情は重要な要素です。
地域振興にかかわる一般的にいわれることとして、まちづくりには、よそ者、若者、バカ者が必要とされています。
真備町には、すでに私のようになんでも手を出してしまうようなバカ者もいますが、残念なことに若者とよそ者は少ない印象です。
若者やよそ者が集まる場所にするためにも、楽しさを大切にしながら、人が集まる場所を築いていければ良いですね。
真備町の復興とまちづくりについての話を聞いて
自然災害を受けた町が、復興のゴールとして目指すべき場所はどこなのでしょうか?
建物や道路が元通りになることなのか、商店が再開することなのか、あるいは災害以前と変わらない生活ができることなのか、ゴールがどこにあるのかを捉えるのは困難です。
それでも、私たちは正解のないゴールを目指して生きていかなければなりません。
水害直後の現場でも、災害ゴミが消えたあとでも、多くの人は常に先のことがわからずに不安だったと思います。
しかし、復興のゴールなど見通せない状況でも、堀口さんは地域の人に対して少しでも役立てることをしようと行動を続けていました。
きっと、その姿は多くの人に希望を与えたと思います。
堀口さんの生き方からは、リーダーとは多くの人にゴールを提示して、進むべき方向に案内する人なのだと教えてもらいました。