倉敷美観地区の歴史を学ぼう(第3部:明治時代〜現代)〜 美観地区に関わる人に知ってほしいここで本当にあったこと(史実)

倉敷美観地区の歴史を学ぼう(第3部:戦後から現代)

「倉敷美観地区の歴史を学ぼう」は2025年度に任意団体「このまち時間旅行倶楽部」が開催した、倉敷美観地区に関する勉強会において、倉敷市歴史資料整備室 山本太郎 氏・倉敷市教育委員会 藤原憲芳 氏による報告内容とスライド資料をもとに、倶楽部メンバーの議論を踏まえて、一般社団法人はれとこ 代表理事 戸井健吾がまとめたものです。

この記事では「第3部:明治時代〜現代」について、紹介します。

第1部:氷河期〜16世紀」「第2部:江戸時代」は以下の記事を確認してください。

倉敷美観地区の歴史を学ぼう(第1部:氷河期〜16世紀)〜 美観地区に関わる人に知ってほしいここで本当にあったこと(史実)
倉敷美観地区の歴史を学ぼう(第2部:江戸時代)〜 美観地区に関わる人に知ってほしいここで本当にあったこと(史実)

記載されている内容は、2026年8月記事掲載時の情報です。現在の情報とは異なる場合がございますので、ご了承ください。

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明治時代

大原孫三郎が明治時代に撮影したとされる美観地区の写真
大原孫三郎が明治時代に撮影したとされる美観地区
(画像提供:公益財団法人大原芸術財団)

江戸時代、倉敷は倉敷代官陣屋が設置され、地域の中心的な町として栄えていましたが、明治維新を境に変わり始めます。

倉敷村は1868年の明治維新後に、それまで倉敷代官陣屋が管轄していた幕府直轄領にいくつかの地域を加えて「倉敷県」になりました。その後、1871年に倉敷県を含む備中国、備後国の10県を統合した小田県(設置当時は深津県)が設置されます。

小田県の県庁は現在の笠岡市でした。
このため、江戸時代以来長らく「地方政治の中心地」であった倉敷は、政治の中心地から外れてしまいました。さらに、1875年に岡山県に合併され、「岡山県の中にある地方の村」になった倉敷は徐々に廃れていきます。

1880年生まれの山川均は、「私がもの心のついたころの倉敷は、まだ水の流れることのない古池のような村だった」と記しています。

倉敷紡績の誕生

左から木村利太郎・小松原慶太郎・大橋澤三郎(画像提供:クラボウ)

その後1884年頃から、「岡山県の田舎町」となっていた倉敷を変えたいと、町の青年たちが立ち上がります。その中でも、木村利太郎(きむら りたろう)・小松原慶太郎(こまつばら けいたろう)・大橋澤三郎(おおはし さわさぶろう)の3人は「倉敷の三傑」と称され、後の倉敷紡績所設立に関わりました。

現代のように移住や都会で学ぶことが簡単ではなかった江戸時代においても、富裕層は江戸や京都で学問を修めました。明治時代になって青年が当時としては先進的な「紡績業」を知ったのも、東京で学んだ成果と思われます。そのような人が一定数いたことが、江戸時代の倉敷が豊かであった証拠とも言えるかもしれません。

彼らは「町・村を代表して都会に学びに行く」という感覚が強かったそうです。このため、学んだ知識を地元で共有したり、町のために尽くしたりするのは自然なことであり、使命感も強かったと思われます。

倉敷は江戸時代から綿花の栽培地であったこと、そして明治政府が殖産興業政策のもと近代紡績産業を推奨していたことから、木村利太郎・小松原慶太郎・大橋澤三郎の3人は地元の有力者に紡績会社設立を説いて回りました。

初代社長となった大原孝四郎(おおはら こうしろう)の賛同と出資を得て、新しい事業の計画を知った多くの県民が共鳴して多数の株式引受の申込みが相次ぎ、不足分を大原孝四郎が引き受けることで事業化の目処が立ちます。こうして1888年に、倉敷代官陣屋跡地に倉敷紡績所が設立されました。

倉敷本社工場(画像提供:クラボウ)
イギリス積みのレンガ

倉敷紡績所は、西洋から最新技術を取り入れた建物でした。

伝統的な町並みの中、しかもかつての政治の中心地である倉敷代官所陣屋地に、レンガ造りの西洋建築が出来上がることは、現代の感覚では違和感を持つかもしれません。しかし、当時は江戸時代の町並みが当たり前だった時代です。江戸時代の町並みや白壁よりも、西洋化・近代化することに喜びを見出したと想像されます。

大正時代〜昭和初期

大原孫三郎(画像提供:公益財団法人大原芸術財団)

その後、倉敷美観地区の中心人物は、倉敷紡績の初代社長大原孝四郎の後を継いだ、大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)に変わります。

大原孫三郎は倉敷紡績を日本を代表する紡績会社に発展させる一方、第一合同銀行(現:中国銀行)、倉敷絹織株式会社(現:クラレ)なども設立し活躍しました。さらに、大原美術館・倉紡中央病院(現:倉敷中央病院)・大原農業研究所(現:岡山大学 資源植物科学研究所)・大原社会問題研究所(現:法政大学大原社会問題研究所)・倉敷労働科学研究所(現:大原記念労働科学研究所)などの施設を作るなど、数々の社会事業・芸術文化活動の支援を行いました。

開館当時の大原美術館(画像提供:公益財団法人大原芸術財団)
倉紡中央病院(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
倉敷労働科学研究所(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

この頃から、倉敷は「天領である」ということにプライドを持ち、人々も「天領のまち倉敷」という意識を持つようになりました。

現代において観光的なキーワードとしてよく聞く「天領のまち倉敷」のように、天領をアピールするようになるのもこの頃です。

1928年(昭和3年)に倉敷市役所が発行した書籍『倉敷市案内』には、以下のような記述があります。

「天領倉敷」として特異の発展を続けて来たのである

明治維新から50年以上の時が経ち、幕府直轄領だった時代が美化され始めた時期だったのかもしれません。天領というキーワードを、倉敷という町自身が使うようになっていきます。

昭和期の倉敷美観地区(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

民藝との出会い

この頃、後の町並み保存活動につながる重要な出会いがありました。大原孫三郎と民藝の出会いです。

「民藝」という言葉は民衆的工藝の略で、柳宗悦(やなぎ むねよし)によって作られた造語です。柳は、日常生活で使われるものには、その用途に根ざした美しさ「用即美」があると考え、河井寛次郎(かわい かんじろう)・濱田庄司(はまだ しょうじ)・富本憲吉(とみもと けんきち)らとともに民藝運動を立ち上げました。

大原孫三郎は柳宗悦との出会いを経て、日本民藝館の設立を全面的に支援するなど民藝運動を支援し、地域の工芸品の魅力を多くの人に伝えようと活動しました。その結果、民藝運動のキーパーソンが頻繁に倉敷へ集まるようになります。

戦後から現代

大原總一郎(画像提供:公益財団法人大原芸術財団)

大原孫三郎は終戦直前の1943年に亡くなり、文化事業も含めて大原家の事業は長男の總一郎(そういちろう)に引き継がれました。

大原總一郎は1932年に倉敷レイヨンに入社し、1936〜38年にかけてヨーロッパ各国を視察しました。この時訪れたドイツ・ローテンブルクの町並み保存に感銘を受け、倉敷の町並み保存活動を行ったと紹介されることは多いですが、ローテンブルクに立ち寄ったという明確な記録は残っていません。

唯一の記録は、帰国後に中学・高校の同窓であり、倉敷レイヨンの営繕技師であった浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう)に「倉敷を日本のローテンブルグにしようではないか」と語ったという、浦辺鎮太郎の言葉のみです。

大原總一郎が文化・芸術はもちろん、町並み保存に対して熱い思いを持っていたことは間違いないでしょう。しかしそれは、活動を応援するというスタンスであり、自らが先頭に立って動くというものではなかったと思われます。

その根拠の一つは、民藝との関わりです。
父・孫三郎の影響もあり、民藝運動に関わる人との交流があったため、戦後間もない1946年に柳宗悦の推薦で染織家の外村吉之介(とのむら きちのすけ)を倉敷に招き入れます。終戦を迎えてもすぐに沖縄に帰れなかった女子挺身隊に織物の技術を学んでもらう目的で、その指導を外村吉之介にお願いするためでした。

倉敷民藝館(安藤弘志氏撮影)
(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)
倉敷考古館(安藤弘志氏撮影)
(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

その後、1948年に日本で2番目の民藝館として倉敷民藝館が設立されました。これは大原家の米蔵を活用したもので、倉敷の古民家再生の第1号でした。現在の感覚で言えば「リノベーション施設」とも言えます。「あるものをいかす」精神は柳宗悦が提唱した民藝の精神の一つであり、大原總一郎・外村吉之介の両名は意識していたものと思われます。

倉敷都市美協会の発足と町並み保存活動

外村吉之介(1990年6月28日 岡山市オリエント美術館講義室にて撮影/92歳)
(倉敷民藝館所蔵)

さらに、1949年に「倉敷都市美協会」が発足します。
これは、外村吉之介ら地元の有識者によって発足した、全国初となる地域住民による町並み保存団体です。しかし、当時町並みを残すという気運が高まっていたのは事実ですが、「住民の総意」ではありませんでした。日本が高度経済成長期に入り始め、古いものを壊し新しいものを作るのが当たり前の時代だったからです。

それでも「残す」という決断ができたのは、外村吉之介をはじめとするキーパーソンが活動を後押ししたからだと思われます。そのような意味合いから言えば、倉敷の町並み保存活動において外村吉之介の果たした役割は大きいでしょう。また、倉敷都市美協会の活動初期は、藤島亥治郎(ふじしま がいじろう)が1952年1月に「文化財月報」にて発表した、「文化財としての民家」と題する文章が強い励ましになったそうです。

倉敷都市美協会は大原孫三郎・總一郎親子に対して、町並み保存の礎を築いたという意味で常に敬意を払っていました。しかし、後年は周りの人たちが勝手に作りあげた「大原家を軸にした町並み保存のストーリー」に対して、疑問を抱いていたようです。大原總一郎が町並み保存活動に無関係であったわけではありませんが、深く関与したという記録もありません。活動を否定せず、同調するような活動が多かったことから、「お墨付き」を与えているような雰囲気だったのかもしれません。

実際、倉敷美観地区においてはその後、クラレの営繕技師であった浦辺鎮太郎が多くの建築物を手掛けましたが、当時は「大原さんが新しいことをやっている」という感覚だったようです。現代において新しい建物の建築家が関心を持たれないのは当時も同じで、建築家として「浦辺鎮太郎」という名前がピックアップされるようになったのは、近年の話です。

1959年(昭和34年)の倉敷美観地区(安藤弘志氏撮影)
(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

そして、住民主導で守られた歴史的町並みを、守り続けるための決まりを定めるべきという声が大きくなり、住民の活動を行政が後押しするような形で、1968年(昭和43年)に「倉敷市伝統美観保存条例」が作られました(1969年施行)。さらに、この取り組みが国の制度となり、1978年に国の重要伝統的建造物群保存地区の設定を受けました。

こうして倉敷美観地区の町並み保存は、法律的な根拠を得ることになり、現代に続いていくのです。

しかし、法律的な根拠を得た後も住民の活動は続いています。
なぜなら、観光地としての側面が強くなったとしても、倉敷美観地区は今も商売人だけでなく住民が暮らしており、生きている町だからです。住民がいるからこそ、生活面の課題も生じます。

このため、1949年に発足した「倉敷都市美協会」の理念と活動は、現在では「倉敷伝建地区をまもり育てる会」に引き継がれ、安心・安全なまちと町並みを育て次世代に引き継ぐための活動を継続しています。

安藤弘志氏撮影
(画像提供:倉敷市歴史資料整備室)

記事全文は以下の特集ページからも閲覧できます。

倉敷美観地区の歴史を学ぼう

このまち時間旅行倶楽部メンバー

  • 大原 あかね
    株式会社三楽 取締役副会長
  • 門利 博子
    語らい座大原本邸 館長
  • 稲垣 年彦
    一級建築士事務所トリムデザイン
  • 大賀 環子
    株式会社日本郷土玩具館 代表取締役
  • 秋葉 優一
    株式会社クラビズ 代表取締役
  • 高石 真梨子
    倉敷市地域おこし協力隊
  • 戸井 健吾
    一般社団法人はれとこ 代表理事

アドバイザー・記事監修

  • 山本 太郎 氏
    倉敷市総務局総務部総務課 歴史資料整備室主任
  • 藤原 憲芳 氏
    倉敷市教育委員会 学芸員
  • 西村 将典 氏
    倉敷市文化産業局参事

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戸井健吾
1979年生まれ、倉敷市在住
2児の父親

システムエンジニアの仕事に携わりながら、ブログ・イベント運営など様々な仕事を行っています。

現在は当メディアを運営する一般社団法人はれとこの代表理事を務めつつ、フリーランスとしても活動中。

自分自身が美観地区を楽しみながら、「行ってみたい」と思える情報を発信することをモットーにしています。

信頼できるWEBメディアになれるように、メンバーが一丸となって運営しています。

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